第388回 錦町一武へ

前山光則

 6月13日(日曜)、やや曇り気味であったが、気の置けない友人と一緒に人吉盆地へ出かけた。
 気ままなドライブだった。ただ、高速道路を通って人吉へ向かいながら、球磨郡錦町一武(いちぶ)にはぜひ立ち寄ってみたいな、と思った。どうしてかと言えば、実は、その日、熊本日日新聞に弦書房新刊の半田正夫〔語り〕・稲垣尚友〔著〕『占領下のトカラ 北緯三十度以南で生きる』についての書評が掲載されていた。書評文は、次のとおりである。

     本書は2月に出た『戦場の漂流者・千二百分の一の二等兵』(弦書房)の続編で、南島の一庶民が語る実に興味深い戦後史である。
     語り手の半田正夫老人は大正11年福岡県大牟田市の生まれだが、育ったのは鹿児島県の与論島。昭和19年に出征し、フィリピン・ルソン島で終戦を迎え、奇跡的に生還を果たした。本書では復員以後のことが語られており、昭和24年、鹿児島県十島村(トカラ諸島)の中之島に渡るのである。サトウキビ農家を営むが、この半田老人の談話を7年間かけて聞き取った作家・稲垣尚友によれば、「人の面倒を見るのに忙しく、いかにして皆が食べていくかを模索」する日々が続く。戦後しばらくトカラ諸島や奄美方面は米軍統治下にあり、奥さんが与論島に「親に孫を見せるだけで帰って来た」ら、密航したとして逮捕されてしまう始末。そんな大変な状況下、止むなく島の人たちと共に密貿易にも手を出した。皆が生活できるようにと、必死だったのだ。
     昭和29年に奄美が日本に復帰して以後も、人のために尽くす日々が続く。生活困窮の家庭に支援の手を差し伸べる、独居老人や母子家庭への配慮も怠らなかった、等々、だから区長や村議を務めたのはそれだけ皆から信頼されていたのである。十島村の役場は鹿児島市内にあり、村議会が年に数回開かれる。そのたびに島の人たちから買物を頼まれるので、半田老人は「注文の品物捜しにタクシー代がたこ高うついて堪らんやった」と笑いながら語っていたという。人の世話をすることを苦にしない、人間としての器の大きさが偲ばれるではないか。平成26年に92歳で亡くなる。
     談話の聞き手・稲垣尚友は、昭和17年、東京の生まれ。現在は千葉県に住むが、若い頃から長らくトカラ諸島で生活し、その間、竹細工技術をマスターすべく球磨郡錦町に来て2ヶ月半修業したこともある。島の人たちの暮らしにずっと寄り添ってきた作家であり、半田老人との厚い信頼関係も自然に培われたと察せられる。

 実は、この書評の執筆者は、わたしである。先に出た『戦場の漂流者・千二百分の一の二等兵』(弦書房)の方には、巻末に「快人二人」と題して主に著者・稲垣尚友氏について詳しく知ってもらうための小文を書かせてもらっている。そして、このたびは続編『占領下のトカラ 北緯三十度以南で生きる』の書評である。本編・続編の両方に係わることができて、波乱の戦中・戦後を逞しく生きた庶民・半田正夫さんについて目いっぱい読み味わい、考えさせてもらうことができた。半田さんのような自律の生き方、逞しい生活の仕方ができる人は希有なこと、なかなかいないのではなかろうか。貴重な2冊の本の誕生に少々ながら係わりを持つことができて、幸せだなと思う。
 ところで、半田さんの談話を7年間かけて聞きとってまとめあげた作家・稲垣尚友氏のことであるが、書評文の中でわたしは「竹細工技術をマスターすべく球磨郡錦町に来て2ヶ月半修業したこともある」と記している。これは、稲垣氏が民俗学雑誌「あるくみるきく」の131号(昭和53年1月1日発行)に発表したレポート「籠作り入門記」中の記述に拠っている。このレポートによれば、稲垣氏は球磨郡錦町一武の竹本一之氏のもとで昭和52年(1977)4月26日から同年7月5日まで修業させてもらっている。それを稲垣氏は「三ヶ月に渡る修業」と言っているが、要するに2ヶ月半近く滞在したのだ。当時、35歳だったそうだ。
 では、その竹本氏の工房は錦町一武のどのあたりにあったのだろうか。そのことが以前から知りたかった。しかし今までやりおおせていなかったから、今日こそはぜひ、との気持ちだったのである。同行してくれた友人も、かつて「九月は日奈久で山頭火」シンポジウムの講師として稲垣氏を日奈久温泉に招いた時に会って面識がある。だから、気安くつきあってくれたのであった。
 講演してもらったのは、平成26年(2014年)9月20日のことであった。「後ろ指さされる勇気にあやかりたい」との演題で喋ってくださった。
 高速道路の人吉インターで下りて、球磨川の橋を渡り、左岸の方へ出る。錦町西を国道219号線が走っているが、その道へ出ると直きにまた旧国道筋が右の方へ見えてくる。そちらへ入った。稲垣氏は「籠作り入門記」の中で、昭和52年4月26日に国鉄湯前線(現在のくまがわ鉄道)の「野中の一軒家みたいな駅」つまり一武駅で下車して、田んぼ沿いに道を辿る。途中の山道で人に出会ったので竹細工の師匠のことについて訊ねたところ、「ここを出れば国道があっから、そこの農協で聞いて見たらよかばい」との返事だった。そこでまたテクテク歩いて農協まで行き、そうしたら竹本家のことを教えてくれた。稲垣氏は、「町並みは以外と大きかった。そのはずれに真新しい建物の食堂がある。その裏だということだった。すぐにその食堂はわかった」と記している。こうした記述を読むと、現在の国道219号線沿いでなく、旧道の方だな、と察しがつく。つまり、旧一武村の中心部だ。現在は国道の方に繁栄を奪われ、寂れてしまっている一帯である。
 さて、昭和52年当時での「真新しい建物の食堂」、その裏に竹細工師・竹本一之氏が住んでいた、というのだ。その「食堂」というなら、一つだけ見当がついていた。旧道の集落の西側の外れ近くにホルモン料理の店があって、ファンが多いとの評判だ。あれは、確か、当時からあった食堂ではなかろうか。そのように見当をつけて、まず行ってみた。ところが、声をかけても返事がない。日曜の午前10時過ぎ、もしかして休業日なのだろうか。店の横に家があって、そこにも声をかけてみたが、やはり人の気配がなかったのでいささか気落ちした。しかし、せっかくここまで来たのだから、と、2、3百メートルほど離れた同じ道筋に昔の教員仲間T氏が住んでいるので、電話してみた。そしたら、運良く在宅とのことだ。T氏宅にお邪魔して、コーヒーを御馳走になった。
 そのT氏は地元に生まれ育った人間だから、竹本氏のことを知っているかと思ったが、記憶にないそうだ。やはり、ダメか。しばらく歓談をして後、おいとました。
 お昼の時間帯になっていたから、付近の食堂に入った。すると、そこは「市房食堂」というきわめてローカルな店名だから、普通に定食とかチャンポンやらを食わせるところだと思い込んでいたが、何のなんの、入ってみると韓国料理専門店であった。しかも人気があるらしく、客がギッシリ入っている。牛テールを使った「テールラーメン」と焼き飯を食ったところ、いや、これがなかなかにうまい。このあたり、町並みはすっかい寂れてしまっていながら、さっきの人気ホルモン屋といいこの韓国料理屋といい、油断などはできないゾ、と感心した。
 その店でも、店主に竹細工師・竹本一之氏のことを聞いてみた。でも、まったく知らないとのことであった。だから、正直、もう諦めかけたのであった。
 しかし、韓国料理の店を出るとき、友人が、
「もう一度、あのホルモン屋の方に行ってみようか」
 と言ってくれた。車をソロソロと移動させていたところ、ホルモン屋の近くに理髪店がある。そこから、折りよく年老いた店主が顔を出したので、思い切って声をかけてみた。そうしたら、
「はいはい、そこのホルモン屋のところですばい。うん、竹細工をしよんなった」
 と反応があった。しかも、
「イナガキ、ナオトモ……、はあ、うん、いた、いた。うちに来なったこともある」
 ようやく判ったのであった。やはり当初の目当てどおりで、ホルモン屋のあたりが竹本家であった。
 それで、再びホルモン屋の方へ行ったが、今度も応答がない。これはもう、今日は引き返す他はないか。それでいったんはそこから移動し、人吉方面へ帰りかけた。しかし、友人が、店の看板に電話番号が記されていたのを記録してくれており、
「おい、試しに、電話してみようか」
 スマートフォンで電話してみてくれた。そうしたら、応答あり。それも、なんということ、電話は竹本一之氏の娘さんの御自宅につながったのであった。店からは少し離れたところに住んでいる、とのことだ。しかも、ホルモン屋のすぐ横に娘さんのご子息がいらっしゃるのだそうである。それで、思いきってそちらへ赴いて、娘さんの御自宅まで連れて行ってもらった。
 お会いしたら、娘さんは、実ににこやかな表情の方である。家は、現在のホルモン店からすればすぐ裏にあったという。父親・竹本一之氏は、稲垣氏が修業に来た年は70歳過ぎであったが、その翌々年に亡くなられたそうだ。だとすれば稲垣氏は最後の弟子だったことになる。娘さんは、稲垣氏のことはあまり覚えておられなかった。当時アメリカ人男性も竹細工を習いに来ていて、そちらの方のことが記憶に残っているそうだ。ただ、
「稲垣さんは、何年前か、トラックを運転して訪ねて来てくださいました」
 とのことだった。はああ、それはきっと日奈久で講演をしてもらった時、つまり平成26年9月である。あの後、稲垣氏はついでにこちらまで出かけて来られたのではないだろうか。それを言ったら、娘さんは、
「さあ、なんさま、優しか、気さくなお方でした」
 いやあ、もうそれだけで大収穫であった。
 その日は、ついでにすぐ近くの山付き狩政(かりまさ)というところにタイ捨流(たいしゃりゅう)兵法で知られた剣豪・丸目蔵人(まるめ・くらんど)の墓があるので、お参りした。ホルモン屋「くらんど」も、この剣豪にあやかっての店名なのである。墓は夏草の茂る中にあって、藪蚊に刺されそうになりながら手を合わせた。
 後は、人吉市内へ出て、町なかの古い銭湯「鶴亀湯」へ行き、昼風呂を愉しんだ。番台に人がいない。入浴料350円を置いて、着替え場へ行く。浴客は、わたしたちだけだった。ゆっくり浸かることができたが、その代わり浴槽も洗い場もヌルヌルしていた。これはどうも、もう長いこと掃除していないのではないだろうか。その代わり、純粋源泉掛け流しの湯である。女子湯の方からは、二三人の声がしていた。
 銭湯を出てからは、人吉駅前の臨時商店街に顔を出してみた。この連載コラム第385回「人吉にて」で話題にした醤油店へ入ったら、やはり奄美のミキが売ってあった。ただ、たった4本だけ冷蔵庫の中にあって、わたしたちが買ったら、
「これで売り切れです」
 と店主が笑い顔で言った。いや、そうか、やはり人気があるのだ。
 ともあれ、目的が達せられて、気分の良いドライブであった。
 2、3日経って、友人は、「あの日にひねった俳句だ」と、一句見せてくれた。彼は名を楠原正元というが、実はとても味わい深い句を詠む俳人なのだ。さて、その一句、 

 緑陰に花手箱開け探しもの

 彼は、いつ、どの場面でこの句の想を得たのであろうか。「花手箱」は実際のものでなく、どうも喩えとして使ってあるふうだ。とすれば、錦町一武であっちこっち動き回ったこととか、球磨・人吉地方の風物やらが詠まれているのか知れない。近いうちにまた会うから、それとなく確かめてみたいものである。
 そして、今、稲垣氏の「籠作り入門記」を読み返している。面白いのである。たとえば、氏は、5月中旬、茶摘みテゴや三角ジョウケ22個を「単車」に積んで、30キロほど離れた五木村まで売りに出かけている。製品は、師匠が作ったものがほとんどだが、稲垣氏のものもあったという。それから、「単車」と称してはあるものの、実は50㏄バイクである。そんなかわいいバイクに22個もの製作品をわんさか積んで、モコモコと川辺川沿いの細道を辿る若き日の稲垣尚友氏。活き活きした1行1行を読み進めながら、あの頃知り合いであったら会ってみたかったのになあ、と、なんだか歯がゆい気持ちである。

▲木槿(むくげ)の花 木槿は、俳句歳時記では「秋」の花として分類されているが、今、盛んに咲いている。今頃から初秋にかけてが花の時季なのである。