前山光則
6月12日、日曜。前日には雨が降り、遅めの梅雨入り宣言が発せられたのだが、その日はカラリと晴れた。親しい友人2人と共に、久々に水俣市へ出かけた。わたしの住む八代市からは車で1時間足らずで行ける。
「水俣に行ったついでにゃ蜂楽饅頭の本店にも寄らなくちゃなあ」
「しかしなあ、糖尿病の心配が」
「うんにゃ、俺は大丈夫。あれは蜂蜜が使ってあってうまか。10個まとめて買うて帰る」
そんなふうに呑気に無駄話をしながら、実に気楽なドライブである。
午前11時少し前には水俣の中心部に入った。大きなスーパーマーケットの駐車場に車を置かせてもらい、まず栄町という町内を散策。町の入り口で西の方を見わたせば、広い道が水俣湾へと続いている。町名とは裏腹な至って静かな大通りを、3人で、キョロキョロしながら歩いた。
どうして栄町通りを歩いたかといえば、そこが4年前に亡くなった作家・石牟礼道子さんが幼少の頃を過ごした町内であるからだ。石牟礼さんは、昭和2年(1927)3月11日、現在の天草市河浦町宮野河内で生まれる。祖父・吉田松太郎が石工の棟梁で、当時そこが仕事の現場であったのだ。生後3ヶ月で水俣へ戻り、栄町の家で育った。ただ、昭和10年には父親が事業に失敗したため、吉田家は栄町の自宅を差し押さえられた。栄町は水俣川からすれば左岸側だが、一家は右岸の方の河口・荒神(通称トントン村)というところへ移らねばならなかった。だから、石牟礼さんが栄町で暮らしたのは少女時代の8年間ほど、ということになる。
実は、八代市内のご婦人方たちにより毎月行われる読書会の講師を長年相務めてきたが、今度、石牟礼さんの作品を初めて読むこととなった。テキストに選ばれたのが、石牟礼さん最後の著作『魂の秘境から』である。これは自伝的エッセイであり、当然のことながら吉田家のあった栄町やその周辺のことやらがふんだんに出て来る。
-
町の裏手は、れんげの花が広がる野原だった。
畦道(あぜみち)伝いに歩いて行くと、さらさらと音がして小さな流れに出た。ところどころ土の橋がかかっていたが、畳一畳くらいはあったろうか。橋の上に立てば小川の底がよく見えた。
こんなふうで、栄町界隈は通りの裏が野原だったようである。石牟礼さんの生家は、通りに面して建っていた。水俣の中では繁華な界隈であり、すぐ近くに遊郭もあった。そして、そこでは血なまぐさい事件が起こった。
-
わたしの家の先隣の「末広」という妓楼(ぎろう)で、ポンタというまだ幼顔の残る、 器量よしの女郎が、おなじ年頃の少年に胸をひと突きにされて死んだ。生き残った少年のことを、町の人たちは心中の片割れとも呼んだ。国仁しゃんはその少年の弟だった。
と、ショッキングな話が語られている。実はこれは自伝的作品『葭の渚』等でも登場する事件であり、幼かった道子さんにとって忘れられないことだったに違いない。
そんな次第で、現地を訪れてみたくなった次第である。
さて、ともあれまずは石牟礼さんの生家はどこであったか。通りは閑散としており、掴みどころがない感じであったが、ただ、連れが2人いてくれるのはありがたいことだ。わたしがマゴマゴしている間にも、通りに面した家々を「こんにちは」「おられませんか」などと声かけをやってくれた。そうすると良くしたもので、家の中から人が出てきて、色々のことを教えて下さる。
まず、石牟礼さんの生家跡が確認できた。わたしたちは地図を手にしていた。自伝『葭の渚』の巻頭に自筆地図「わたしの栄町通り」が掲載されており、それを拡大コピーして持参していたのであった。石牟礼さんの生家は、街の中心を走る国道3号線から栄町へ入って行くと、町内のほぼ真ん中あたり右側に「石屋(わたしの家)」と地図に記されている。そこは、もう今は完全な空き地であった。奥の方は「れんげの花が広がる野原」ではなく、家が建て込んでいる。
それから、生家に向かって右2軒先が「末廣」、つまりまだ幼顔の残るポンタという女郎が少年から刺されて死んだという妓楼。この妓楼の跡は、現在ではまったく違う風情の民家が建っている。多分、昭和33年4月1日に売春禁止法が施行されて妓楼つまり遊郭は全国一斉に無くなってしまったから、その後、建て変わったのであったろう。
自筆地図「わたしの栄町通り」は石牟礼さんにとって「昭和十年ごろまでの記憶図」、すなわち少女「吉田道子」であった頃の記憶に基づいているらしいが、かなり正確に記されているのではなかろうか。「石屋」からすれば道向かいに当たる「第二小学校」「文具店」「何とか商会(今も昔のまま建っている)」は、家から出てきた人たちが教えてくれたり、自分たちでも見当がついたりして、あまり苦労せずに位置を確認することができた。「何とか商会」に至っては、ほんとに石牟礼さんが記すとおり「今も昔のまま建っている」のであった。栄町界隈がなんだか徐々に賑わいを取り戻してくる感じであった。
わたしたちは欲を出して、車に戻り、栄町からさらに先の海岸方面へ道を進んでみた。つまり「丸島通り」を海の方へ行くと、右手に丸島港が現れる。さらに進むと、梅戸港である。ここらは、チッソ工場の真裏に当たる。
梅戸では、「しゅりがみ山」を確認したかった。この山には、自筆地図「わたしの栄町通り」では「ここの狐たちが舟をやとって天草に渡った、と云い伝える。工場に棲家をハカイされて」との説明が加えてある。『魂の秘境から』の「会社運動会」の中でも、
-
チッソの裏山を地元の人はしゅりがみ山と呼んでいた。後年そこにいた狐が山をハッパで崩されて住み場所を失い、一族そろって天草へ帰るのに、地元の漁師に頼みごとをしに来たという話が残っている。「いまは渡し賃もありまっせんが、天草に帰ってから働いてお返ししますので、なんとか船にのせて連れて帰っては下さいませんでしょうか」と頼まれた漁師もいた。もちろん渡してやったが、なかには、木の葉ではない本物のお金を持ってきた狐もいたそうだ。
と、まあ、こんなふうな牧歌的な、しかしながら素朴な辺地の生活が「チッソ」によってなし崩しにされてしまった頃の雰囲気を引きずるような話が語られているわけである。さらに丸木位里・俊さんとの共著絵本『みなまた 海のこえ』には、冒頭から、
しゅうりりえんえん
しゅうりりえんえん
わたいはおぎん きつねのおぎん
しゅり神山のおつかい おぎん
というふうに「しゅり神山」が登場する。そんなふうに愛読者としては馴染みとなってしまった地名なので、おぎん狐の住みかがあるというこの山は、どんな姿であるか、以前から実地に眺めてみたかったのである。
ところが、梅戸港の裏手に廻り、3人で手分けして各家を訪ねてから訊いてみたものの、手応えがちっともなかった。これには弱ってしまった。梅戸港の裏手は、確かに小高く丘状に盛り上がっており、その向こう側はチッソ工場だ。だが、土地の皆さんは「狐たちが舟をやとって天草に渡った」という言い伝えよりも何よりも、「しゅりがみ山」という山名そのものを御存じでない。自筆地図「わたしの栄町通り」を見せてみると、
「はあ、確かにここの裏山ですな、しかしなあ」
「聞いたことがなかですがな」
「特別に名前のついとる山ではなかですもん」
と、こんな調子である。梅戸港あたりの人たちにとって、「しゅりがみ山」はまったく知らない山名であり、まして狐たちの話なども初耳だったのだ。これには弱ってしまった。
もしかしたら、「しゅりがみ山」という山名は、地元でなくて水俣の町なかの人たちが梅戸港方面を眺めて呼んでいたものなのであろうか。あるいは、かつては現地でも町なかでも普通に知られていた山だったが、現在では忘れ去られてしまったのであるか。
とにかく、まったく反応がないものだから、不思議な気持ちに陥ってしまった。
だが、ま、良い。「しゅりがみ山」については今後の課題とすることにして、わたしたちは水俣市立図書館前の「ナポレオン」という老舗レストランで昼食をとった。そして、午後は近くの水俣八幡宮に参拝。『葭の渚』の中で、石牟礼さんは「水俣の八幡さまに今もある狛犬(こまいぬ)二頭と大鳥居」は祖父・吉田松太郎さんたちの仕事である、と書いている。「狛犬二頭には祖父の名が二人の銘友と友に刻まれ、鳥居にも名を連ねている」ともあるので、見てみたのだが、いや、ほんとにそうであった。立派な大鳥居、狛犬だ。
それからは水俣川の右岸の方へ廻り、昭和10年に一家が没落して移り住んだ河口の荒神(通称トントン村)あたりやそのすぐ近く昭和12年に転居した猿郷を巡った。猿郷には、生家のあったはす向かいに昭和62年7月に新築された家も遺っている。猿郷の家は、若い頃に亡妻と一緒によく泊めてもらっていたので懐かしい。
猿郷の先の大崎鼻(うさきがはな)を越えて、湯の児温泉にも立ち寄ってみた。湯の児も石牟礼さんの祖父や父親たちの仕事場だった時期があるそうで、これも『葭の渚』によれば、祖父・松太郎さんたちは海岸にうち捨てられていた「こわれ舟を修繕して、浴槽に用いた」のだという。
そのようにあちらこちら巡っているうちに午後も3時をだいぶん過ぎたから、国道3号線へ出て、八代に帰ることとなった。
「今日は石牟礼文学ツアーだったな」
「3人で、色んな聞き込みができたよなあ」
「しゅりがみ山のことが、どうしても分からんだったけどなあ」
などと3人で語らいながら八代へ戻ったのだったが、運転しながら途中でハッと気づいたことがあった。
「おい、おい、大事な用件を忘れておった」
「忘れておった?」
「回転饅頭を買い損ねた!」
「あれ、まあ」
わたしは、蜂楽饅頭本店に立ち寄るのをすっかり忘れてしまっていたのだ。いやはや、これは実に迂闊で、残念なことであった。
*
それから、「しゅりがみ山」については、その後、水俣在住の何人かの知り合いに電話して訊ねてみたものの、やはり知っている者はまだ出てこない。もはやすっかり忘れられてしまった山名なのであろうか? それとも……?