第418回 瞽女(ごぜ)の世界

前山光則

 最近、大山眞人著『瞽女(ごぜ)の世界を旅する』という本を読んだが、大変おもしろかった。
 50年ほど前まで新潟県の旧高田市(現在、上越市)にいた「高田瞽女」のことが物語られている。瞽女というのは、「手引き」と呼ばれる「目明き」つまり健常者に導かれて村々を門付けして廻る盲女の旅芸人たちを指す。ちなみに、「門付け」は、家々の玄関先や勝手口で瞽女唄を披露し、米や金などを得ることである。瞽女たちは門付けだけでなく、家に上げられて芸を披露するし、泊めてもらうこともしょっちゅうであったという。遠い昔には瞽女集団は全国に存在したというが、次第に減少して行き、近代に入ってからは東北とか北陸方面で見られていたようである。
 瞽女となるには、目が見える人もいないではなかった。だが、たいていは盲目の女性であり、「瞽女になるか按摩になるか」といった選択肢の中から瞽女となる方を選び、幼い頃からこの世界に入って行ったのだそうだ。
 今度読んだこの本に登場するのは、高田瞽女のなかの杉本キクエ一家である。1年間のうち家にいるのはほんの一ヶ月ほどで、後は主として新潟県の頸城(くびき)三郡つまり東・中・西頸城郡、さらには長野県の一部をも廻っていたそうだ。各地を廻るときの旅のしかたであるが、主として歩いたのだという。商売道具の三味線はいうまでもないこと、衣類やこまごまとした道具類も含めれば瞽女1人が持ち歩かねばならぬ荷物は合計15キログラムほどにはなっていたそうだから、そのようなものを抱えての徒歩の旅は、さぞかし大変なものだったろうと思われる。
 娯楽の少なかった昔、彼女らは方々の村で必要とされた。たとえば、信州佐久地方の畑(はた)という村から鶯(うそ)ノ口集落へ行く途中、急にあたりが暗くなって雷雨が襲って来た。生きた心地がせぬほど怖い思いをして鶯ノ口まで辿り着くと、村の衆が待っていてくれた。
「まあ、瞽女さ、このひどい雨降りんなか、よう来たいなあ(よく来たね)。さあさあ、早く荷物降ろして家んなか、入んない」
 こんなふうであり、杉本キクエたちは彼らを頼って旅を続けることができたそうだ。
「どこの家に行っても、『よう来た、よう来た』と喜んでくれた。門付唄をうたうと、家のなかから馴染みの顔が飛び出してくる。こうなると、先ほどの恐ろしい出来事なんて、すっかり忘れてしまっている」
 ――こうしたくだりを読むだけでも、かつて瞽女たちがどのような旅をしたか、方々の村人たちがいかに彼女らの来るのを楽しみにしていたか、偲ぶことができるであろう。
 ちなみに、高田瞽女たちは、信州のカミナリは自分らの家がある越後すなわち新潟県よりも「すごい」と思っていたそうだ。「信州には高い山が多い。その分、空に近い」、だからカミナリの勢いも凄いのだ、と「キクエは思った」とある。
 それにしても、盲目の人ならではの苦労が多かった。
 瞽女たちが最も怖れたのは、「自分が今どこにいるのか、という相手との位置(距離)がはっきりしない」ような時、「相手が何者か読めない」時だそうだ。これは目が見えるわたしたちには経験し得ないことだ。それから、瞽女としてもらわれてきた子どもたちが最初に体験する試練、それは「家の広さ」でも、「見たこともない先輩たち」でもなく、実は銭湯だったという。瞽女の家には風呂がないから銭湯へ出かけるのだが、
「ガランとした広い浴室もさることながら、足の届かない、キクエの言葉を借りれば、『海のような』浴槽で、そのうえ桶のぶつかり合う音や話し声が木霊(こだま)して、それこそ気を失わんばかりに動転した」
 こうしたことは、実に目の見えない人ならではの試練であろう。
 また、旅に出ると最も苦労するのが道幅と橋だった。 
「道幅が狭くとも、小さな橋でも手引きが導くとおりに渡れば怖いことはなかった。ただし、台風に遭遇すると道も橋もその様子を一変させる。このときは、台風が過ぎるのを待てばよかった」
「キクエも橋を渡ることをもっとも嫌ったひとりである。せめて欄干とはいわなくとも、手すりでもあれば問題ないのだが、目の見える村人には不要だった。風が少しでも吹けば揺れる。生きた心地がしない」
 『瞽女(ごぜ)の世界を旅する』には、こんなふうな話がいっぱい出て来るのである。
 そして、もう15年ほど前のことになるが、群馬県と新潟県との県境付近で「瞽女道」に立ってみたのだったなあ、と、懐かしい記憶が甦った。それは、『若山牧水への旅――ふるさとの鐘』(弦書房)を書くための取材の一環としての旅。平成20年(2008)6月2日のことであった。
 わたしは、5月25日から、若山牧水ゆかりの地を辿るための取材旅行に出かけた。まず牧水が最後に住んだ静岡県の沼津の町や伊豆半島を巡ってみた。次に東京へ出た後、牧水の紀行文「みなかみ紀行」の旅ルートを実地に辿るべく長野県の軽井沢の方へ行き、そこからは群馬県の草津温泉方面へと峠を越えた。そして6月1日はみなかみ町の湯宿温泉・金田屋旅館泊。6月2日には、同じみなかみ町の最奥部、新潟県との県境に近い山奥の一軒宿・法師温泉の長寿館へ行ってみた。
 ここは三国(みくに)街道筋であり、若山牧水が「みなかみ紀行」でこのあたりのことを書いているのである。それは、大正11年(1922)10月23日のこと。牧水は前夜から法師温泉の長寿館に宿泊し、その日は湯宿温泉方面へと歩くのだったが、「うす闇の残つてゐる午前五時」に宿を出た。肌寒い中を歩き、吹路(ふくろ)というところの急坂にさしかかった時であった。牧水はこう記している。
「十二、三から廿歳までの間の若い女たちが、三人五人と組を作つて登つて来るのに出会つた。真先の一人だけが眼明(めあき)で、あとはみな盲目である。そして、各自に大きな紺の風呂敷包を背負つてゐる。訊(き)けばこれが有名な越後の瞽女である相だ。収穫前の一寸(ちょっと)した農閑期を狙つて稼ぎに出て来て、雪の来る少し前に斯うして帰つてゆくのだという」
 そう、瞽女たちの集団に遭遇しているわけである。当時は、あの辺りではわりと普通に見ることができたのではなかろうか。牧水は喜んでいる。これを見て、同行していた2人のうち「M君」は、「法師泊りでせうから、これが昨夜だつたら三味や唄が聞かれたのでしたがね」と言って笑うのだった。牧水はこれを聞いて、「フツと或る事を思ひついたが、ひそかに苦笑して黙つてしまつた」そうだ。牧水は何を思いついたのか。実は、「宿屋で聞かうよりこのまゝこの山路で呼びとめて彼等に唄はせて見たかつた」のであった。大胆なことを考えるものである。しかし、そのようなことをすれば「二人の同伴者が余りに善良な青年」であるから、止したのだという。 瞽女たちの数は、「その三々五々の組が二三町の間も続い」たので、総勢で「三十人はゐたであらう」と牧水は記す。瞽女たち一人二人に三味線をかき鳴らさせるならば、「蓋(けだ)し忘れ難い記憶になつたであらうものを」と残念がっている。
「這う樣にして登つてゐる彼らの姿は、一町二町の間をおいて落葉した山の日向に続いて見えた」
 牧水はこのように彼女らの旅する姿を「這う樣にして登つてゐる」と書いているので、よほどに印象深い光景であったのだ。ほんとに、思い切って瞽女たちに声をかけてみれば、さぞかし面白かったことであろう。
 わたしも、平成20年6月2日は、朝、湯宿温泉から猿ヶ京温泉まで出た後、そこからは村営バスに乗って法師温泉へと向かった。あのあたりは辺鄙なところなので、日に4本しかバスの便はないという。法師温泉の一軒宿、牧水が「みなかみ紀行」の旅の時に泊まった長寿館近くのバス停で下りて、しばらく三国街道を歩いてみた。そこらは標高約800メートル、冬には雪が1メートルから2メートルほどは積もるらしい。四方八方が山であるが、近くの三国峠を越えれば新潟県苗場スキー場(新潟県湯沢町)あたりへと出るのだそうだ。道ばたに佇み、文庫本を開き、しばらくは「みなかみ紀行」の瞽女が登場する場面を辿ってみた。梅雨に入ったばかりの時季であったが、その日は雨も降らず、みずみずしい大自然の中でひんやりした山間部の冷気を体感しながら過ごすことができた。
 無論、『若山牧水への旅――ふるさとの鐘』の中では、牧水と瞽女たちの遭遇のことはしっかり触れておいた。あれは忘れられない一日だったなあ、と、今でも思う。 
 『瞽女の世界を旅する』に登場する杉本キクエたち高田瞽女は、50年前にその世界を閉じたという。今は現地の新潟県上越市に「瞽女ミュージアム高田」というのがあって、そこでなら彼女らの面影を辿ることができるそうだ。観に行ってみたいものだ、という思いが湧いてきているのだが……。 


▲法師温泉・長寿館 かつてここらには5軒ほど温泉宿があったそうだが、今は牧水も泊まったこの旅館が一軒残っているだけ。谷の川床から良質の温泉が湧出し、心地良い入浴を楽しむことができるので、人気がある。

▲湯宿温泉・金田屋旅館 牧水は、法師温泉に泊まった後は湯宿温泉の金田屋旅館に来ている。牧水の泊まった部屋が「牧水の間」と名づけられ、今も残されている。