第421回 残夢童女――不思議なことがあるものだ

 世の中には時折り不思議なことが起こるものなのだな、と、今、しみじみ思う。
 7月15日のこと、故・石牟礼道子さんの御子息・道生さん(名古屋市在住)からメールが届いて、水俣市の実家から昔の位牌が出て来たが、その一つに「残夢童女」と記されたものがあった、と知らせてくださった。わたしは思わず「エエエーッ!」と、素っ頓狂な声を上げてしまった。
 道生さんの実家があるのは、水俣市白浜町猿郷というところである。夫の石牟礼弘氏が8年前に、そして道子さんは5年前に亡くなられたために誰も住まわなくなってしまっていたのだが、それが、ひょんなことで京都市の古書店カライモブックス経営の奥田直美・順平御夫妻が入居なさることとなった。故郷を遠く離れて名古屋の方でずっと暮らしている道生さんとしては、大変助かったのだそうであった。
 奥田さん御夫妻は、石牟礼家の御仏壇はそのままで大切に扱いたい、それにしても整理整頓をおろそかにしてはいけないということであれこれ整理をしてみていたところ、仏壇の奥の方から石牟礼さんの実家の分の古い位牌が出て来た、そして、なんと、「残夢童女」と記されたものが見つかった! そのことはすぐさま名古屋市の道生さんに報告され、道生さんはえらく驚いてわたしの方へも知らせてくださった――という次第であった。
 それで、7月17日、近所に住む友人S氏と水俣市在住のMさんにつきあってもらい、3人で石牟礼家旧宅にお邪魔してそれを見せてもらった。
 いやあ、確かに位牌には「残夢童女」と墨書してあるのだった。わたしたちは3人とも、「ほーっ」と深いため息を吐いてしまった。
 戒名の右には「天保二夘天」、左の方には「二月十三日」と記されている。天保二年というなら、江戸時代末期だ。亡くなった「童女」は、はたして何歳ぐらいだったろうか。記されていないからはっきりしないのだが、しかしまだ幼くして逝ったのには違いなく、これは早逝した女児への深い愛惜の情が籠められた戒名なのである。しかも、道子さんは石牟礼家へ嫁に来たという立場だったが、弘氏と一緒に住んだのはすぐ傍にあった自分の実家、吉田家。この吉田家は、代々石工業を家業としており、出身は水俣からすれば不知火海を隔てた向こう岸、天草下島である。この位牌はそのようなところに眠っていたが、やがて近代に入ってから海を渡り、対岸の水俣へと運ばれて来て、仏壇の奥深く仕舞い込まれて眠ったままだった。無論、ご夫婦が新しい家を建ててからも同様であった……と、大雑把にいえばそのようなことになろうか。
 あんまり大切に仕舞いこまれていたためか、道生さんからのメールによれば、「恐らく母もこの位牌のことは知らなかったと思います」とのことだ。いや、そうであるに違いない。もしこのことに気づいていたのであれば、石牟礼さんは必ず何らかのかたちで表明したはずだ。戒名「残夢童女」は、作家・石牟礼道子にとって軽んずべからざる重みを持っているからである。
 もっと具体的に言おう。わたしが最初「エエエーッ!」となったのは、石牟礼さんに、「前山夫妻と市房ダムが干上がったのを見に行って」と詞書した上での、

湖の底よりきこゆ水子らの花つみ唄や父母恋し
 水底の墓に刻める線描きの蓮や一輪残夢童女よ

と詠んだ短歌作品があるからだ。2首目の方に出てくる戒名「残夢童女」、実にまったく同じなのである! この2首は、熊本市内に発行所を置く「道標」という雑誌の第30号(平成22年9月発行)に「裸木」と題して発表された短歌作品18首の中に出てくる。詞書に記されているとおり、球磨川の最上流部の球磨郡水上村、市房ダム湖底での見聞が詠われている。
 市房ダムの湖底には、2度、石牟礼さんを案内している。最初は昭和53年2月であった。当時わたしは市房ダムの4キロほど下流(水上村岩野)にあった多良木高校水上分校に勤務しており、夫婦で学校近くの職員住宅に住んでいた。石牟礼さんは何度かそこへ遊びに来てくださったが、その2月のある日、球磨川の水がひどく減ってしまっており、市房ダムの人工湖は底をさらしていた。そこらはダムの下流側に立って眺めた場合、左から球磨川本流、右側から湯山川、この二つの流れが合流する地点である。かつてそこには新橋(しんばし)という集落があり、水上村の中では一番賑わったところだったのだ。隣県の宮崎県椎葉村からわざわざ峠越えして買物しに来るくらいに、人の出入りも多かった、そのような昔の集落の姿が現れていたから、わたしたち夫婦は石牟礼さんを案内して湖底へ下りてみたのであった。
 旧・新橋集落の残骸は、泥にまみれた姿をなまなましくさらしていた。
 石牟礼さんはその時の印象が忘れられなかったようで、後年、再び「連れて行ってほしい」とおっしゃった。それで、平成6年9月20日、同じ場所へと案内したのであった。その頃はわたしは八代東高校定時制に勤務しており、人吉市内の熊本日日新聞人吉総局で石牟礼さんと落ち合って、新聞記者の人2人も同行するかたちで水上村へ向かい、湖底に入ってみた。ダム湖の渇水状況は、昭和53年の時よりもひどかった。以前と同様に泥まみれであったが、旧新橋集落の人家跡や役場跡や発電所跡やらがすべて現れており、墓地跡などもすっかり露わになってしまって、墓石がたくさんあった。石牟礼さんは、『花の億土へ』の中でこう書いておられる。
「そのお墓の一つに蓮の花が一輪、非常に簡単な線描きで刻まれていて、『残夢童女』と、残りの夢の中にいる女の子という意味です。よくつけたなと思いまして、赤ちゃんだったのか、三つになるやならずやの女の子の墓に違いないんです。それで村の人たちはこんなふうにして命をいとおしんだ。水の底に沈められて、その残夢も水の底に沈んでしまったんだなと思いました」
 いや、ほんとにあの時、石牟礼さんは墓石の一つ一つに見入り、「残夢童女」との戒名もこのようにして実際に目にされたふうである。メモもとっておられたと記憶している。
 この2度にわたる湖底探訪は、やがては力作長編小説『天湖』(平成9年刊行)へと結実したのだった。そして、短歌2首にも詠み込まれたわけである。
 ついでながら、令和2年に刊行された石牟礼道子追悼文集の書名も『残夢童女』である。この本の編者・米本浩二氏の「編者あとがき」によれば、文集の題名は決まるまで時間がかかった。「たましいの遠漂浪(とおざれき)」とか「預言者・道子さん」「夢とうつつを見る人」「愛しのみっちゃん」というふうに色々考えたけれど、どれもしっくりこなかったらしい。そこで渡辺京二さんに相談したところ、渡辺さんはちょっと考えていたが、やがて、「〝残夢童女〟はどうだろうか」とおっしゃった、それで一気に書名が決定したのだという。米本氏にアドバイスした時の渡辺さんの頭には、間違いなく「水底の墓に刻める線描きの蓮や一輪残夢童女よ」、この短歌が浮かんでいたはずである。
 湖底の墓石に刻まれていた戒名「残夢童女」と、御自分の家に仕舞いこまれていた位牌の中の「残夢童女」、何という巡り合わせであろうか! 石牟礼さんが生前この偶然の一致に気づいていたら、必ずやまた作品執筆に新たな展開が生まれ出たことであったろうなあ、と思う。
 水俣でその位牌を見せてもらった翌々日は、わたしは球磨郡多良木町の浄土真宗の寺に用事があって、娘と一緒に朝早くから出かけた。その折り、寺で和尚さんに「残夢童女」の写真を見せてみたところ、
「これは禅宗のお位牌ですな。浄土真宗ではありません」
 と教えてくださった。それというのも、戒名の上には梵字が置かれている。これが禅宗の作法なのだそうだ。その日はまた、多良木での用件が終わった午後、人吉市内で従兄に会った。従兄は遠い山梨県大月市に住んでいるのだが、曹洞宗の寺院の住職である。それが、タイミング良く久しぶりに帰省していたから、会って、一緒に昼飯を食べたのだった。そしてやはり「残夢童女」の写真を見せたところ、確かに禅宗だとのこと。つまり、石牟礼さんの実家は、御先祖が禅宗の寺院に帰依していたことが分かる。
 さらに従兄は、「童女」と記されてあるのは亡くなった女の子が5歳とか6歳ぐらいだったのではなかろうか、と推測してくれた。というのは、戒名をつけるときの原則のようなものがあって、それよりまだ幼い場合は、「孩子(がいし)」とか、「嬰子(えいし)」とかいうふうにつけるそうなのだ。
 その後、熊本日日新聞社からこの御位牌「残夢童女」に関して一文したためよとの命が下ったので、一所懸命原稿用紙にして3枚余の原稿を作成した。そして、その文の末尾には「石牟礼さーん、驚きがまだ収まらず、ゾクゾク、ワクワク、ドキドキしてますよ!」と記しておいた。正直なところそのような気持ちだった。いや、それどころか、ほんとに今でもまだ胸の内で「エエエーッ!」が収まっていない。
 ちなみに、水俣からはその後「夢水童子位」と記された位牌も出て来た、とカライモブックスの奥田さんがメールで知らせてくださった。これは位牌の裏に「明治三十五年旧十一月十日/吉田松太郎二男」と記されている。松太郎というのは、石牟礼道子さんの祖父である。その人の「二男」が「夢水童子」さん、ということになる。これもまた亡くなった子への情愛に満ちた位牌だな、とつくづく感心する。
 それはそれとして、カライモブックスは、現在、水俣の石牟礼さん旧宅での開店を目指して準備しておられる。早く店を開いてほしいなあ。奥田さん御夫妻、がんばってくださいね、待ってます!

▲写真 御位牌「残夢童女」 拝ませてもらった後、しっかり見入ったのであったが、実にまことに不思議な思いであった。