第424回 秋の彼岸の一泊二日

前山光則 
 
 秋彼岸の9月24日・25日、熊本市在住の友人3人と共に人吉盆地へ出かけた。
 友人たちは、「相良(さがら)三十三観音巡り」をしてみたいというのであった。言われてみれば、わたし自身、わがふるさと球磨・人吉地域のあちこちに観音堂があるのは知っていても、彼岸の頃の三十三観音巡りに出かけてみたことはないので、良い機会だと思った。友人が運転する車に乗せてもらい、二日間、各所を訪ねてみたわけである。 
 八代から高速道路ですんなり行くのでなく、球磨川沿いに国道219号線を通ってみることにした。各所でまだ3年前の大水害の痕跡が残っている。生々しい爪痕はもうほとんどないものの、かつて人家の密集していたあたりが水害にやられてしまい、今はひろびろとした空き地と化している。崖崩れした箇所などは現在も修復工事が続いているので、そうした現状を友人たちにも目で確かめてもらった。
 そして、まず参拝したのが、三十三観音のうち最も球磨川の下流域にある球磨村三ヶ浦(さんがうら)の5番札所・鵜口(うのくち)観音である。肥薩線渡(わたり)駅の手前から右に折れて、球磨川の橋を渡ったすぐのところ、道ばたに車を置けば目の上にお堂がある。石段を歩いて行くと、お堂の右横では村の御婦人たち数人の姿があった。しっかりと手を合わせてお詣りをしたら、
「お茶をどうぞ」
 と声をかけてくださった。勧められるままに茶を啜り、茶請けを見てみると、煎餅や駄菓子だけでなく大根漬けや高菜漬けなどもある。これが、実においしいのであった。
 事前に耳にした情報では、本来ならこの三十三観音巡りの際にはどの札所でも漬物や煮〆(にしめ)など色々のおいしいものが供される。だが、コロナ禍や大水害によって、ここ3年間、観音巡りは中止に追い込まれた。今年は4年ぶりの再開なのであるが、接待する際には感染防止のために乾き物しか出さないとの申し合わせがなされた、と聞いていた。しかし、実際に来てみると、こんなにおいしい手作りの茶請けも用意されており、何という幸運だったろう。
 実は、ここだけではなかった。二日間で十一ヶ所の札所を経巡ってみたのだが、確かにどこでも茶請けに出されるのは煎餅など干菓子が主であった。しかし、結構おいしい煮物や漬物を何カ所かで味わうことができた。
 いや、それよりも、忘れずに記しておきたいことがある。最初に立ち寄った鵜口観音堂、トイレがたいへん清潔であった。そして、それは他のどの札所でもまったく同様なのであった。友人たちもこれには感心していた。
 24日は、札所だけでなく山江村で「やまえ栗祭り」が開催されていたので、ワイワイガヤガヤと人の集まっているところへ見物に立ち寄った。あんまり人が多すぎてすぐに退散したのだったが、しかし村の入口に12番札所「合戦嶺(かしのみね)観音」があるので、そこには忘れず立ち寄って、しっかりお詣りさせてもらった。そしたら、ここのトイレがまたえらく瀟洒な作りである。隣接する物産販売所も、同様だ。聞けば、なんと両方とも設計は新国立競技場や根津美術館等を手掛けた建築家・隈研吾(くま・けんご)によるものだというから、一同、
「エエエーッ!」
 とビックリした。
 24日は、くまがわ鉄道の多良木(たらぎ)駅に隣接営業する簡易宿泊施設「ブルートレインたらぎ」に泊まった。これは、14年ほど前に引退した寝台特急はやぶさ号の車体を持ってきて、整備し、泊まることができるようにしてあるのだ。なんだか、若い頃に帰った愉快な気分でベッドに休むことができた。
 翌くる25日は主として上球磨方面の観音堂を巡ってみたが、盆地の最も奥にあるのが水上村岩野の24番札所・龍泉寺観音である。わたしは昭和50年春から4年間、寺のすぐ近く多良木高校水上分校に勤務し、学校裏手にあった職員住宅に住んでいたから、この寺にはしょっちゅうお邪魔して御住職や坊守さんには親しくさせてもらった。だから、懐かしい寺である。はたして、行ってみると、観音堂へのお詣りにも人が来ていたが、寺の本堂の方ではまた大勢の村人たちが集まって、秋彼岸法要が行われていた。お邪魔になってはいけないので、観音堂で拝んだ後はすぐに立ち去ろうとしたら、坊守さんがわたしたちを見つけて、招き入れてくださった。
 それで、玄関口へ入って行ったら、受付の人がわたしを見つめて、
「前山君、久しぶりなあ」
 笑顔でおっしゃる。一瞬、頭が混乱してしまった。にこやかな顔して目の前にいる人は、わたしよりも老けて見えた。小肥りの体格、引き締まった顔だが柔和であり、はて、どなた様であろうか。
「ほれ、俺はK・Fたい」
 とおっしゃるのでハッとして、失礼ながらお顔をマジマジと見つめたら、そう、目元に高校時代の賢そうな雰囲気が残っていた。
「いや、ありゃー、これは失礼しました」
 わたしは玄関で土下座してしまった。高校時代、一学年上にいたK・F先輩だ。何も訳が分からぬまま文芸部に入部させてもらった時、色々と導いてくださったのだった。あれから約60年、高校時代の先輩はスラリと痩せていたのだが、現在は恰幅が良くて、すぐには見分けることができなかった。しかし、そうか、K・Fさんはここ水上村の人だったのだなあ。卒業してどこかへ出ていたのだろうが、いつの頃からか村に帰って来ておられたのだったろう。思いもかけぬ再会であった。
 思いがけないことは、まだあと一つあった。
 最後に立ち寄った人吉市温泉町の8番札所・湯元観音、ここでお詣りした後、お堂の横で土地の御婦人方から茶を御馳走になった。ここらには、近くに知り合いの焼酎醸造元があるので来ることが多いし、隣りの中神町の方には共同浴場があって、安くで入浴できるから、やはりよく利用するのである。そのようなここら辺りのなじみ深いあれやこれやについて喋ったり、御婦人方の話を聞いたりしていた。そしたら、わたしたちとそう歳の違わないように見える上品な女性が、
「……もしかしたら、お宅は、前山光則さんではないですか」
 とおっしゃるので、たまげた。
「わたしは、H・Mの家内です」
 おや、まあ、H・M君ならば同級生であり、しかも子どもの頃に人吉の中心部二日町(にのまち)でお互い近所に住んでいた。しかし、そう言えば1年程前、近くの中神温泉で出会わしたことがあるので、ははあ、彼は現在ここらに住まいがあるのだろうか。奥さんは、
「はい、わが家はすぐこの向こう側ですもん」
 といって、さっそくスマホを使って彼を呼び出そうとしてくださった。あいにくあっちからの応答はなくて、その場での再会はかなわなかった。しかし、八代方面へ帰る途中、彼の方から電話してきて、
「いやいや、外出しておったし、ちょうどスマホの電源を切っておったもんだから、残念じゃったばい」
 と懐かしい声。ほんとに、まあ、ひょんなことがあるもんだ。しかも立て続けに、であるから愉快だ。これも観音様のご利益なのかな、と感謝したことであった。 
 ともあれ、4人ともちゃんとした巡礼姿をするわけでなく、札所の順番通りでもなく、しかも十一ケ所だけをお詣りした二日間。しかし、充実した愉しい小旅行であった。
 観音堂を巡っているうちに、つくづく感じ入ったのは観音様のお顔である。実に優しそうな顔つき、やや瞑想気味の表情、凜々しさもあるようなお顔、等々、一つ一つ顔つきが違うのであるが、しかしどれもまことに良い表情だと思う。仏像製作を手掛けた仏師たちは、誠心誠意、仕事をしたのであったろう。拝んだ後、観音様のお顔を眺めてみると、そのようなふうに、製作した人たちのことも考えたくなるのだった。
 そして、各札所で接待してくださる地元の方たちの心優しさにはほんとに頭が下がる。 球磨・人吉のこの相良三十三観音めぐりがいつ頃始まったのかは、定かでないようである。しかし、『相良三十三観音めぐり』(高田素次・上川香・北村龍雄著)という本によれば、寛政6年(1794)に井口美辰(びしん)という人吉藩士が「御郡中観音堂三十三所巡礼之次第并和歌」と題した書き物を遺している由であり、すでにその頃には巡礼が行われていたことが分かる。こうした古くからの伝統的行事が、今も地元の人たちによってしっかりと支えられているのだ。有難味が濃く残る、実に貴重な二日間であった。
 ただ、あんまり気分良かったために、写真を撮るのを忘れてしまっていた! いや、ちゃんとリュックサックの中にカメラを入れておいたのではあった。しかし、情けないことに取り出すのを忘れてしまっていた。スマホでも撮れるのだが、要するにそういうことをすること自体、失念してしまっていたわけだ。いやはや、残念、無念。
 
 
 

12番札所・合戦嶺観音 10月7日、近くまで出かけたついでにあらためて撮影。

合戦ケ嶺観音堂敷地内のトイレ(右)と物品販売所(左) 、これも10月7日撮影。