第426回 11月26日、福岡国際センターにて 

前山光則 
 
 11月26日、福岡国際センターに大相撲九州場所の千秋楽を観に行った。友人2人とわたしの娘、わたし、この4人で愉しんだのであった。
 4人のうち、友人K氏とわたしは早やばやと午前11時過ぎには会場に入り、序二段の取り組み途中から観戦した。陣取ったのは西方マス席の7列目で、そこからはわりと間近かに土俵を眺めわたすことができた。
 ちなみに、博多駅前からバスに乗った時、さっそく鬢(びん)つけ油の匂いがしたので見まわしたら、やあやあ、取的さんが2人乗っているではないか。これから会場に入り、自分の取り組みに備えるのであろう。一人は髷(まげ)を結っているが、もう一人はまだザンバラ髪だ。二人とも髪の毛が鬢つけ油で固めてあるので、ほれほれ、大相撲の匂いだゾ、と嬉しくなった。これが東京であれば、両国の国技館辺りではいつもこの匂いが漂っている。福岡も、今はお相撲の街なのだな、と嬉しくなってしまう。 
 すぐ近くの座席に座っていたザンバラ髪の力士に声をかけてみたら、四股名(しこな)は「風栄大(かぜえいだい)」とのことだ。初々しい、きりりとして元気溢れる顔つきである。「頑張って下さいね!」と励ましておいた。
 さて、会場に入ってみると、まだ観客の姿はパランパランだ。これが、取り組みが進むうちに少しずつ席が埋まっていくのである。
 やがて熊本からA女さん、さらに午後1時近くにはわたしの娘もやってきたので、いよいよマス席に4人座っての観戦となった。 
 バスの中で出会った風栄大は、三段目の取り組み21番目に登場した。「ガンバレ、カゼエイダイ!」と声援を送ったら、強烈な張り手で相手を吹っ飛ばし、一瞬のうちに勝利した。いや、なかなかに元気良い相撲っぷりであり、これからも応援してやりたいものだ。
 声援であるが、我ながらあまり良く響くような声が出ない。「ガンバレ、カゼエイダイ!」も、果たして本人の耳に届いたか、心許ない。これに比べたら友人のK氏は「ガンバレ、貴健斗(たかけんと)!」、「行け行け、正代!」などと気合い充分の力強い声を上げ、これが実に声が良く通るのである。彼はどうも広い館内での声援には慣れており、発声法もちゃんと身につけているかのようだ。しかし、彼に言わせれば、
「いやあ、俺たち大人よりも、子どもたちの声援の方が響くなあ、やっぱ違うバイ」
 なるほど、人気ある力士が土俵に上がると盛んに四方八方から声援が上がるのだが、確かに子どもたちの声がビンビンと耳に入ってくる。声変わりする以前の子たちの声はスゴイなあ、負けるなあ、と感心したのであった。
 観戦しながら、自分はつくづく相撲が好きなのだと思った。大相撲本場所が始まれば、いつもテレビにかじりついて観入ってしまう。この九州場所を観に来るのは、もうこれで何回目であろうか。八代方面に巡業がやってくれば、やはり見物せずにはいられない。
 そして、子どもたちが盛んに力士たちに声援を送っているのを観ていると、自分の少年時代のことと重なってくる。家の近くの川原で三角ベースの野球やソフトボールに興じたし、格好良い木切れを拾ってチャンバラ遊びにも夢中になった。中学時代の部活動は柔道部だった。だが、そういうのよりも熱中したのが、相撲だったのである。
 いつぞやも書いたとおり、少年時代、相撲を習いに行った時期があるのだ。あれは、小学5年の時、駒井田町という町内の広場に土俵があったのだが、そこでは若い頃に「高手山」という四股名で高砂部屋に所属し、十両にまで昇進した経歴を持つという初老のおじさんが毎晩相撲を教えてくれていた。近所のお兄ちゃんに誘われて、行ってみたところ、これが面白い。高手山さんの他、もう少し若そうなおじさんたちが助手みたいにしていつもいて、まわしの締め方、四股の踏み方、仕切りのやり方、立ち会いの時の姿勢のとり方、等々、本格的に教えてくれるのだった。たちまち熱中してしまい、その相撲道場には6年次の冬まで毎晩通った。
 高手山さんは、わたしたちをあちこちの村祭りに連れて行ってくれた。そこでは相撲大会が行われるので、村の子どもたちと取り組みを行うこととなる。これが楽しかった。勝っても負けても、菓子とか飴玉だとかノートとか、色いろのご褒美をくれるのだった。わたしはさほど強いわけでなく、ある時など滅茶苦茶負かされて泣きたくなるくらいだったが、だからといって止めようなどとは思わなかったから、やはり熱中していたのである。
 ある寒い日には、稽古を早々に切り上げてから、土俵の横に臨時の竈を設けて火を焚き、チャンコ鍋と称するものを作って食べさせてくれた。なんだか豚汁みたいな、でも大変おいしくて、皆で平らげてしまった。
 9月9日の人吉青井阿蘇神社のおくんち祭の時には、大人たちの相撲の合間に子ども相撲も行われていた。高手山さんはそこにもわたしたちを出させてくれた。そして、子ども同士の取り組みや勝ち抜き戦だけでなく、化粧まわしをつけての土俵入りもさせてくれた。あれは実に晴れがましい一日となったのであった。
 ああいうふうに小学5年から6年にかけて熱心に高手山さんの相撲道場に通ったが、月謝のようなものを払ったことはあったかなあ。記憶を辿ってみるが、まったく覚えがない。どうもあれは、高手山さんたち人吉相撲協会の人たちが無償の行為として行なっていたのであったろう。わたしより4歳上で柔道の強かった兄には、ある時、高手山さんが、
「君は、相撲部屋に入門する気はないかね」
 と勧誘したことがあったそうだ。兄は応じなかったのだが、つまり高手山さんは子どもたちへの指導を行ないながら、有望な強い子を探していたのか知れない。いわば、スカウトのような存在であったろうか。
 言うまでもないことだが、わたしなどは身体も頑丈でなく、強くもなかったので、高手山さんからスカウトされたことなど全くない。ただただ愉しい、勝った負けた、あちこちの村祭りで相撲をとった、土俵入りさせてもらった、等といった無邪気な思い出が残っているわけだ。
 そのように少年時代を思い出しながら、ああ、ほんとに我ながら相撲が好きなのだなあ、と、改めて感慨に耽ったのであった。
 さて、やはりわたしたちは熊本県から観に出かけているわけで、どうしても郷土出身力士に贔屓(ひいき)し、大いに声援を送ってやりたくなる。三段目では高野(八代市出身)と阿蘇ノ山(阿蘇出身)が勝って、高野は2勝5敗と負け越しだが、阿蘇ノ山は6勝1敗の好成績。穂嵩(菊池出身)は負けてしまったが、5勝2敗と勝ち越している。芦北町出身で東幕下49枚目の大海(たいよう)も敗れて、2勝5敗の負け越し。十両に入って八代市出身の貴健斗(たかけんと)も、対馬洋(つしまなだ)に負けてしまった。貴健斗は、現在、西十両の9枚目だが、これで3勝12敗。来場所は幕下に陥落となりはしないだろうか。ケガに悩まされての毎日だっただけに、なんだかとても可哀想であった。
 幕内に入ると、東前頭11枚目の佐田の海(熊本市出身)が翔猿(とびざる)を寄り切って8勝7敗、勝ち越しを決めたのにはホッとした。東前頭2枚目の元大関・正代(宇土市出身)は、宝富士(たからふじ)を堂々と押し出した。ただ、今場所の戦績は、結局、6勝9敗であった。来場所は、また何枚か地位が下がることになってしまうのだろう。
 その日は、霧島が貴闘力との大関同士の対決を制して、13勝2敗、2度目の優勝賜杯を手にした。結果としてまず順当なところだったかな、と思う。貴闘力は「綱取り」などと期待されながらも、押し相撲の不安定さを克服できぬまま9勝6敗という平凡な成績に終わった。霧島の方がむしろ安定・充実しているわけで、どうもこちらの方が横綱を目指すことになるのではないだろうか。 
 ところで、わたしがバスの中で声をかけた風栄大は、後で調べてみたら埼玉県川越市の出身で、現在19歳だそうである。押尾川部屋に所属し、昨年の九州場所が初土俵とのことなので、高校を卒業してからか学業半ばで入門したのだろうか。今場所の戦績は、5勝2敗である。現在三段目の西40枚目だから、これだと来年の初場所には幕下近くまで番付が上昇していることだろう。

写真① 福岡国際センター この建物の前に立って、たくさんの幟旗(のぼりばた)を目にすると、それだけで気分がグッと盛り上がる。いやあ、やはりわざわざ出かけてきて、良かった!

写真② 15日間の全日程が終了し、いよいよ吊り天井が降ろされるのである。テレビ観戦だと、こういうのはまったく放映されない。その場に居るからこそ観られる光景だ。