第428回 年末、蕎麦を愉しんだ

 
 謹賀新年。2024年(令和6)が始まったのである。本年も、どうぞよろしく!
 昨年末のことであるが、人吉市に住む親しい友人から蕎麦粉を一袋貰った。その友人は農業を営んでいるのだが、彼が自分で栽培したのでなく、人吉盆地の奥に住む知り合いがたくさんくれたから、そのお裾分けだという。ほー、盆地の奥に畑があり、そこに蕎麦の種が蒔かれ、育ち、花が咲く。やがて実が太ってきて、収穫されたわけか。なんだか、その蕎麦畑には行ってみたいもんだなあ、と思ったことであった.蕎麦好きな人間として、ひじょうに嬉しかった。
 それで、貰った翌朝、さっそくドンブリに蕎麦粉を大さじ5、6杯分ほど放り込んで、熱湯をふりかけて、クチャクチャッと勢いよくこね回してみた。蕎麦粉は見る見るうちに凝固していく。いわゆる「蕎麦搔き」である。ところによっては、これは「かいもち」とも呼ばれるだろうか。熱湯を当てた途端に蕎麦特有の芳香がフワーッと立ち上がるはずだが、そうでもなかったので、粉は少々古いのかもしれない。
 もし蕎麦屋でこれを注文すれば、上品なダシ汁と共に賞味することになるのだろうか。そういうのをだいぶん以前に老舗蕎麦店で食べたことがあるが、正直なところ品の良さにはあまりなじめなかった。もっと気楽に掻き込みたいもんだな、と思ったことであった。
 この蕎麦搔きというものを知ったのは、中学1年生の時であった。学校の近くに住む同級生の家に遊びに行った時、そこに同級生の父親がいた。
「蕎麦でも食うか」
 とその人が言うので、普段町なかの蕎麦屋で「かしわ(鶏)そば」とか「並そば」等を食べたことがあったから、ああいうのが食べさせてもらえるのかと思った。ところが、友人の父親は蕎麦の麺など使わずに、湯を湧かし、蕎麦粉を捏ねて、団子状にしてくれた。味つけは「サトジョーユ」、つまり生醤油に白砂糖を混ぜたものが用意され、
「ほれ、食べろ」
 と差し出してくれた。良い香りだった。友人が慣れた手つきで蕎麦搔きをかき込むので、真似て口に入れてみたところ、おお、うまい、おいしい! それまでは、蕎麦というのは麺状になったものしか知らなかったのだった。そうでなく、こうした食べ方もあるわけだなあ。中学生のわたしにとって、ひじょうに新鮮な体験として今も鮮やかに蘇える。
 いや、それはともかく、その日のわたしは、ちょうど近所の人から奄美諸島の徳之島でとれた黒砂糖をいただいていたから、それを蕎麦団子にふりかけながら食った。おお、やっぱりうまい。特有の香りはしなかったものの、蕎麦掻きなんぞ、うーむ、久しぶりだなあ。なんだか、わけもなく顔面が緩んできて、気持ちが弾むのであった。
 そのまた次の日は、ホットケーキを作ってみた。つまり、フライパンに油を引き、熱しておいて、そこへ蕎麦粉を水で溶いてドロドロの状態にしたものを注ぎ込む。そして焼き上げてみたのだが、なかなかふっくらとは焼き上がらなかった。それでも結構焦げ目がついたから大皿に移し、これも黒砂糖をまぶして食べた。ホットケーキと称するにはほど遠かったものの、「焼きダゴ(団子)」とでも言いたいような素朴な舌触りだ。だから、一応それなりに愉しめた。
 蕎麦粉ホットケーキについては、亡妻のお母さんが名人であった。平成9年に亡くなられたが、晩年をわが家で一緒に過ごしてもらった。そして、お母さんは、時折り蕎麦粉をフライパンで上手にホンワカと焼いてくださったのである。球磨郡水上村の湯山集落で生まれ育った人であり、どうも蕎麦粉の利用法は小さな頃からなじんでいたふうなのであった。わたしなどはひと頃友人たちと共にしきりに九州脊梁(せきりょう)山脈方面へ出かけて山村巡りをやったのだが、そのような折り亡妻のお母さんが焼いて持たせてくれる蕎麦粉ホットケーキを持参し、お握り代わりにパクついたものであった。その味わいもさることながら、腹持ちが良くて、山村巡りする際にたいへん助かったのだった。
 蕎麦粉と水を混ぜ合わせる割合いとか、焼き上げる際の火加減だとかを、もっとちゃんと習っておくべきだったなあ、と思う。ああ、もう今となっては遅きに失しているのだ。
 そういった次第で、年末は思わずも蕎麦粉を味わうことができた。
 そして、忘れてしまっていた記憶も蘇った。それは、故・江口司さん(弦書房刊『不知火海と琉球弧』の著者)から聞いた話だ。江口さんは、ある時、
「蕎麦は、種を蒔いてから75日あれば収穫されるのですよ」
 と教えてくれたことがあった。
「へえ、それじゃあ人の噂も75日とかいうけど、それと同じだな」
「いかにも!」
「えらくまあ、うまいこと一致しますね。しかしなあ、ホントかなあ」
「ウソみたいな話、とでも思うでしょうが、ホントにホント」
 その話をしてくれる時、江口さんはとても機嫌がよかった。しかも、身を乗り出して、
「そしてねえ、蕎麦は、花が咲いたその日だけ物凄い悪臭を放つとですよ」
「エッ、ウソー、まさか」
「いや、これもホントにホントです」
「どんな匂い?」
「なんというか、肥溜めみたいな」
「そ、そぎゃんひどか匂い、ですか」
「うん。……いや、しかし、咲いたその日だけ。翌日からは、実に良い匂いなんですよ」
「エッ、本当に、ホント?」
「はい、たった一日だけが悪臭……」
 そんな他愛ないことを語り合ったことがあったなあ。江口司さんが不慮の事故により亡くなったのは、2008年(平成20)3月31日。ずいぶんと月日が経ってしまった、と、なんだかしみじみした思いに浸ったのであった。
 たった一袋の蕎麦粉を貰っただけで、こうして昔のことが思い出された。これをくれた友人には心から感謝したことであった。
 ついでながら、蕎麦といえば、大晦日には「年越し蕎麦」がなくてはならない。蕎麦好きであれば、せっかく蕎麦粉が手に入っているのだから、自分で粉を捏ねて、伸ばして、麺を作る人も多かろう。だが、わたしなどはそのような器用なことができぬ人間だ。近所のマーケットに「信州十割そば」と銘打った乾麺が売ってあったので買ってきて、湯がいた。それで、だし汁の方は煮干しとカツオ節と昆布をつかって作り、かしわ(鶏肉)を具に使った。つまり、いわゆる「かしわ蕎麦」。いや、まったく我流にやってみただけだ。それでも、一応食べられる「年越し蕎麦」ができたので、帰省した娘と一緒に、夜、啜ったのであった。「信州十割そば」は結構おいしくて、しみじみとした年越し気分になることができた。
 しかし、蕎麦を啜りながら、亡妻がいつも言っていたことを思い出した。つまり、生前、何度も、
「そんなに蕎麦好きなんだったら、自分で蕎麦打ちしなくっちゃ、ホンモノとは言えないじゃなかね」
 亡妻からそう皮肉られると、毎度言い返せなかったもんだよなあ。そう、ほんとは自分で蕎麦粉をこねて、手打ち麺を作ってみるべきであろう。せっかく蕎麦粉をいただいたというのに、蕎麦掻きは作っても麺を作るまでには行けてない。なにせ、我ながら不器用だし、努力するだけの根性もないからなあ。……そのように愚痴りながら、年越し蕎麦を食べたのであった。
 
 
 

山茶花の花盛り 自宅から日奈久温泉へ行く途中、干拓地の中を車で走っていると、あちこちで山茶花を見かけた。今、花盛りである。花が少ない冬期、山茶花は心が和む。