第433回 恥ずかしながら語ったこと

前山光則 
 
 先日、お年寄り十数人が集まっておられる親睦会で小一時間お喋りをさせてもらった。
 与えられたテーマは、若い頃どんなふうに俳句というものに馴染んだかを語れ、ということ。その日の方たちは、皆、老いてなお向上心が盛んで、今から俳句を作ってみたいと願っておられるのである。あるいは、もうすでに詠んでみてはいるが、うまく句にならない。どのように努力すれば良いか分からぬ、という方も数人おられた。わたしなど暇ひまに俳句を作りはするものの、専門的にやっているわけではない。しかし、「あなたがお若い頃からどのようにして五七五に親しんで来たかを語ってくれれば、あの方たちの励みになるから」と会の世話人の方からおだてられ、ついつい引き受けてしまったのであった。
 わたしは中学を卒業するまでは柔道少年だったから、文芸などというものにはまるで興味がなかった。それが、高校に入って本を読むのが楽しくなり、小説や詩などじゃんじゃん読み耽るうちに自分でも書いてみたくなった。学校の勉強はそっちのけで、色んなものを書き散らしたのだった。そして、俳句もひねってみた。なんとか五七五のかたちにしたものを幾つか国語担当のS先生に見てもらったところ、困ったような顔して、
「あのねえ、俳句は五七五という短い詩型だからな、欲張って詰め込んでもダメなんだよ」
 とアドバイスしてくださった。よほどに愚作だったのだろう。それで、欲張らないことを心がけながら盛んに作ってみた。高校2年生の時に発行された文芸部誌「繊月」第八集に載った自作を見ると、こういうのがある。
 
 息殺し子どもら蝉を見つめ居り
 祖母と我二人秋刀魚の膳につく
 秋出水(あきでみず)地蔵の首を洗いつつ
 南瓜(かぼちゃ)胸に抱きたる子の笑顔かな
 冷や飯の上吹き通る秋の風
 
 こういうのを見て、国語科の心優しいS先生は、「うん、まあまあだね」と評してくださったが、別のやはり国語科のT先生は厳しかった。
「おい、マエヤマ、君はえらく年寄り臭いゾ」
 それで、ガクンとうな垂れてしまった。口惜しいから、なんとか若者らしい面が出せないものか頑張ってみたが3年生になってからの文芸部誌「繊月」第九集に載ったものを見てみると、次のようなものを詠んでいる。

 祖母一人早やばや寝たる寒さかな
 下り立てば雪だるま有り田舎駅
 我が胸に小さき希望草萌ゆる
 春疾風(はるはやて)街にはサイレンまたサイレン
 晩霜を見つけて谷の深さかな

 自分ではだいぶん努力したつもりだった。だが、S先生は好意的な反応を示してくれたものの、T先生は、
「君には『青春』ちゅうものがないのか?」
 相変わらず酷評であった。
 今から読み返してみると、「年寄り臭い」「『青春』ちゅうものがないのか?」との指摘は、やはり、当たっているのではないだろうか。
 あの頃、俳句の方ではどのようなものを目にしていたかというと、教科書に載っているもの以外では郷土出身の上村占魚(うえむら・せんぎょ)氏の作品に馴染んでいた。

 人の顔見つつ食べゐる夜食かな
 友死すと掲示してあり休暇明け
 一茶忌や我も母なく育ちたる
 ふるさとは山をめぐらし水涸るる
 ちらほらと村あり紅葉いそぐなり
 さびしさと春の寒さとあるばかり
 本丸に立てば二の丸花の中(人吉城址)
 肌ぬぎの乳房ゆたかに湯もみうた(草津)
 白根かなしもみづる草も木もなくて
 春泥を体くねらせ女来る

 これらは、占魚氏の若い頃の作である。
 占魚氏は本名を上村武喜といって、大正9年(1912)、人吉の紺屋町に生まれている。生家は鰻料理屋で、昔も今も行列ができてしまう人気店である。17歳から、熊本の後藤是山(ごとう・ぜざん)という人の手ほどきを受けて俳句を始めたらしい。東京美術学校(現在の東京芸術大学)で蒔絵(まきえ)を学び、卒業後しばらくは群馬県で図画教師として勤めたが、軍国主義に凝り固まった校長と意見が合わずに退職し、文筆の道に入る。俳誌「みそさざい」を主宰して俳壇の第一線で活躍し、高浜虚子の写生精神を踏まえつつ叙情性をも重んじるという独自の俳風を確立したのである。無論、専門の蒔絵の方でも活躍した。平成8年(1996)、75歳で逝去。句集に『鮎』『球磨』『霧積』『石の犬』等があり、エッセイ集も多い。
 一句目「人の顔……」、これは18歳の時の作、その次の「友死すと……」「一茶忌や……」は19歳になっての作であるから、この人は最初から技術的に完成しているのではなかろうか。わたしは占魚氏の生家のすぐ近くで生まれ育っており、ひどく親近感を覚えてこの人の作品に親しんだのである。

 阿蘇人と阿蘇をたたへてビール抜く
 猪(しし)食ふや球磨焼酎をなめながら
 さびしいときばかりでなくておでん酒
 掌(てのひら)に木の実ころばすそれも旅(伊香保温泉) 
 主(あるじ)いま執筆時間泉湧く(武者小路実篤邸)
 睡れねば春の夜なればワイン酌む
 おでん屋に少しの借りの誼(よし)みかな
 おぼえある橋も流れも春ゆふべ(人吉)
 毛糸帽かろがろ旅の荷は一つ
 木の芽谷もんどり打って光る水(球磨川水源)
 
 このように、今読み返しても占魚氏には佳句が多い。最後の「木の芽谷……」は70歳を超えたばかりの頃の作だが、球磨川水源の流れの様子を「もんどり打って光る水」と捉えており、ちっとも年寄り臭くない、たいへんみずみずしい感覚ではなかろうか。
 基本的には、占魚氏は師である高浜虚子の「写生」精神を旨として詠みつづけた。しかも結構柔軟であったので、三句目「さびしいとき……」六句目「睡れねば……」七句目「おでん屋に……」なんかは写生だけにとらわれぬこの人ならではの叙情が詠われている。
 だから、高校生だったわたしにとって上村占魚氏は結構大きな存在だったと言える。
 高校時代のT先生の酷評「君には、青春ちゅうものがないのかねエ」が現実感を伴って自覚されるようになったのは、高校を卒業し、東京へ出てからであった。1年間浪人したというか、ボーッとして遊んだだけだったが、その後法政大学の夜間部に入り、働きながら学校に通う生活が続いた。その間、小出版社に1年ちょっとばかり勤めたことがある。そして、そこから出ていた寺山修司編『男の詩集』はロングセラーであった。なにせ、ボードレールや萩原朔太郎の名詩が載っているかと思うと三橋美智也が歌ってヒットした流行歌の歌詞も載っているという、とても面白い本だった。それで寺山氏もこの本には愛着があったらしく、あの頃自らが結成した劇団「天井桟敷」を率いてあちこちの神社境内や公園やらで上演活動をなさっていたが、会場で『男の詩集』を販売してくれていた。それで、品物が売り切れたら電話がかかってくるので、あちこちの会場へと20冊、30冊というふうに本を届けてやっていた。そんなわけで寺山氏には何度も会っていたし、作品も読んでみた。
 そうしたら、劇作もエッセイ・詩・短歌・評論も面白いが、さらにこの人の俳句がまたひどく心動かされた。

 小春日や病む子も居たる手毬唄
 シベリアも正月ならむ父恋し
 ひぐらしの道のなかばに母と逢ふ  
 ちちははの墓寄りそひぬ合歓(ねむ)のなか
 葱(ねぎ)坊主どこをふり向きても故郷
 夕焼けに父の帆なほも沖にあり
 春の銃声川のはじまり尋(と)めゆきて
 文芸は遠し山焼く火に育ち
 林檎の木ゆさぶりやまず逢ひたきとき
 便所より青空見えて啄木忌
 花売車どこへ押せども母貧し
 わが夏帽どこまで転べども故郷
 方言かなし菫(すみれ)に語り及ぶとき
 他郷にてのびし髭剃る桜桃忌
 亡き父にとどく葉書や西行忌

 この強烈なみずみずしい感性というか、才気、一種の天才だな、と目を見張ってしまった。五句目「葱(ねぎ)坊主どこをふり向きても故郷」とか十二句目「わが夏帽どこまで転べども故郷」、こういうふうに自らの故郷を表現するのである。あるいは、自分が田舎育ちだということを「方言かなし菫(すみれ)に語り及ぶとき」と詠う。読みながら、ため息が出てしまうのであった。
 極めつけというべき作が、九句目である。

 林檎の木ゆさぶりやまず逢ひたきとき

 好きな女性への熱い思いを表出してのこの一句、林檎の木を揺さぶり止まないなどとは、何という強烈な情熱の吐露であることか。テラヤマさーん、ボクも、好きな女性を想うときにまったくこんな気持ちでしたよ! と叫びたい気持ちになった。だが、わたしなど自分なりに恋愛経験があったものの、なぜかそれを題材にして文芸作品を書こう、まして俳句に詠み込もうなどとはしたことがなかったのであった。あれは、まったく自分でも不思議でならない。やはりT先生の酷評「年寄り臭い」「青春ちゅうものがない」は図星、まともに正確に覇気のない高校生を捉えた言い方だったのだなあ、と、寺山修司氏の俳句作品群に触れて自覚せざるを得なかった。
 ただ、では寺山俳句に刺激されてじゃんじゃん句が生まれたかといえば、実はむしろまったく逆で、わたしはなぜかしら俳句が詠めなくなったのである。胸の内には表現したいものが存在し、狂おしいまでに渦巻いていたのに、なかなか五七五の形にはなってくれない。いや、それどころか俳句を作ろうとする気持ち自体が失せていった。だから、あまり強烈に優れた作品から刺激を受けるというのも、考えものなのかもしれないのであった。
 そして、それから幾十年か経った。
 50歳になろうとする頃、どういうわけであろうか、ようやく再び俳句を詠んでみようという気が湧いてきたのだった。実際、少しずつ五七五にまとまるようになった。

 青海苔の干されて軽し青きまま
 見上げれば桜さくらや露天風呂
 連なって少女らの声もみじ山
 山の神鳥の形(なり)して秋深し
 雪しんしん喜怒哀楽の上に積む

 ――と、まあ、こんなふうに自分の若かった頃のことを振り返り、思い出し、語らせてもらったのであったが、さて、果たして皆さん方のお役には立てたであったろうか。

 

蓮華草 今、山には山桜があちこち咲いているが、田んぼには蓮華草が花盛り。結構、目を愉しませてくれる。