第434回 淵上毛錢の俳句を味わった

前山光則 
 
 前回は俳句について触れたが、それを書くために寺山修司の本を本棚から引っ張り出して読み返したりしているうちに、今度は水俣が生んだ詩人・淵上毛錢のことが思い出されて来た。それも、詩でなく俳句作品の方を辿りたくなった。
 だから、久しぶりに『淵上毛錢全集』を開いてみた。

 炎天に千万の蟻彷徨す
 爪染めし童女の行くよ秋はまた
 木枯しにふと猫を嗅ぐ女かな
 行逢うて手籠の底の土筆かな
 黒土の歴史を語れ青き麦
 葱白く盛り上がりたる夕餉かな
 石蕗くへば同じ匂ひの女かな
 桃に戯(ざ)れ歩きてみたし生仏(いきぼとけ)
 重詰に山椒ちらす祭りかな
 骨骨の細る日数やつるし柿
 南天の烈しく雪に叛きけり
 秋冷の空深々とバッハかな

 毛錢は詩作品が良く知られているけれども、こうやって眺めわたしてみると、俳句もなかなかの味わいではないだろうか。
 淵上毛錢は、本名は喬(たかし)である。大正4年(1915)、現在の水俣市陣内(じんない)、士族の家に生まれ、早熟で、元気者。悪童ぶりを発揮して大きくなったが、チェロに熱中し、学業は怠りがちだったそうだ。14歳で熊本の九州学院から東京の青山学院中等部に転校し、やがて中退、ハンローという喫茶店で働く。ところが、結核性股関節炎が発症し、昭和10年(1935)から郷里の水俣で15年余の寝たきりの闘病生活を続けて、昭和25年(1950)3月9日、35歳という若さで世を去るのである。
 もともとは音楽が好きで、チェロを弾くのが得意であったという毛錢が文芸に親しむようになるのは、闘病生活に入ってからである。毛錢に俳句を勧めてくれたのは、主治医の徳永正(まさし)だったそうだ。この人からどの程度の技術指導を受けたか受けなかったか知る由もないが、毛錢の句はなかなかに鋭い感覚であるし、捉えどころもたいへん良いのではないだろうか。
 第1句目、夏の炎天下、蟻が大地を蠢(うごめ)く。それを、「千万の蟻」が「彷徨す」と表現しており、スケールがとても大きいではないか。2句目・3句目・7句目は、それぞれ色気プンプンである。
 4句目「行逢うて手籠の底の土筆かな」については、面白いエピソードが残っている。昭和18年のこと、付添いの看護婦・田中房江が、この句を毛錢には内緒でこっそり雑誌「主婦之友」俳句欄に自分の名を使って投稿したのである。そうしたら、水原秋桜子の選で2等に入り、賞金5円が得られた。参考までに、当時、熊本あたりでは玄米の公定価格が14キロで4円40錢だったそうだ。ちなみに、1等は賞金10円で、長崎の林田節子という人の句「雪解風(ゆきげかぜ)真向(まっこう)に炭を負ひ下る」であった。さて、どちらが俳句として優れているであろうか? 毛錢の闘病の一端が窺えるのは、8句目と10句目であろう。つまり、8句目で「桃に戯れ歩きてみたし」と願っている「生仏」というのは、明らかに作者自身であろう。寝たきりであっても、頭の中にはエネルギッシュなものがいつも蠢いていたに違いないのだ。そして、10句目の「骨骨の細る日数」、これは闘病の経緯が色濃く反映されたものと思える。最後の句は、いかにも音楽好きな毛錢、枕元に蓄音機を置いてもらい、バッハに聴き入っていたのだろうか。

 簪の桃に触れたる別離(わかれ)かな 
 ふるさとの春はめぐりて一人の子
 秋の夜や泣くこと多きわれも虫
 さからはず谷のふかみへ落葉かな
 すべて木に股あるがかなし若芽かな
 北風や頬骨かたき旅役者
 ふるさとの雪を語りし娼婦かな
 塩かててやつとまま食ふ裸かな
 ひとすじを地球に残す田螺かな
 言ふべくを言はぬ寒さや日を記す
 しぐるるや子に割る卵ひとつづつ
 秋風や狐狸の世界の化け競べ

 1句目と7句目は自身の過去を振り返っての作かと思われる。「簪の桃に触れたる」などとは、わりと純な思い出であろう。7句目の方になると、これは東京での青春放浪の日々の一端が語られていはしないだろうか。
 2句目と11句目であるが、毛錢は寝たきりであったものの、昭和20年2月に中村ミチヱと結婚し、子ども2人を授かる。かつての放蕩息子が、今は父親となったのだった。病床に繋がれながらも子を設けることができた喜びが、それぞれの句全体に溢れているのではなかろうか。3句目、これは自らを泣き虫と認めての詠であり、なんだか可哀相である。5句目になると、どうも、木の股から新芽が出ているのを見て、人間の場合と重ねてみているような生臭さがある。
 そして、12句目に「狐狸の世界」とあるのは、明らかに人間世界のことを暗示しているだろう。病床にずっとありながら、毛錢は自分の身の回りに起こる現実界の騙し騙され具合をしっかり見ていたかと思われる。
 毛錢の俳句を味わっているうちに、詩作品の方もあらためて気になってきた。そして、あれこれ読み直してみたのだが、

 ぼくが
 死んでからでも
 十二時がきたら 十二
 鳴るのかい
 苦労するなあ
 まあいいや
 しつかり鳴つて
 おくれ

 たった8行のこの詩「柱時計」、何という完成度であろう。作者の死生観が一字一句も無駄なく表明してあり、文句のつけようがない。というか、間近に迫った死期というものをしっかり見つめて、一語一語が無駄なく並べられているのである。
 「出発点」と題された詩もひじょうに良い。

 美しいものを
 信じることが、

 いちばんの
 早道だ。

 ていねいに生きて
 行くんだ。

 もうまったく解釈の余地がなく、納得するしかない作品だ。「ていねいに生きて 行くんだ」、毛錢は、生きることの最も肝腎かなめのところを言い切っているのである。
 なんだか、いくらでも引用してみたくなるのだが、ふと、淵上毛錢には結構長い詩もあるのだった、と気づいた。第一詩集『誕生』の表題作である「誕生」は26行、「流逝」は36行だ。さらに、「寒かちゆうて/泣くとかい/泣かんちやよかたい/泣かんてちや/雀雀ば/見て見んな」というフレーズで始まる「冬の子守唄」になると、全48行あって、大変長い。しかし、どうも毛錢の詩は長いものよりも短詩の方に輝きがあるなあ。それは否定できないゾ、と思う。
 毛錢は昭和22年7月にそれまでの詩作の集大成というべき『淵上毛錢詩集』を出版する。収録作品数、60編である。それを各方面に贈っており、たいへん好評であった。そして、色んな文芸家たちからの反応がたくさん寄せられた。最も高く評価されているのが、先に引用した「柱時計」である。ついで人気のあったのが、「慕情」と「春祭り」だが、

 すりきれた

 わら草履のうへに

 雀が

 寒く死んでゐた

 ほそい足の泥が

 固く乾いてゐた

 そこは

 急いで通つた

 これが「慕情」である。つまり、たったの8行。行が空いている分も作品の内とみなしても、15行にしかならない。そして、「春祭り」の方になると、

 まき寿司の春菊がいやでいつも出して食べた

 たったこの1行である。そう、『淵上毛錢詩集』を読んだ文芸家たちは、毛錢の長い作品よりも短詩の方を圧倒的に高く評価したのだった。このように毛錢の作品が長いものよりも短いフレーズの方に冴えが顕著なのは、どうしたわけであったろう。
 そこで思うのであるが、毛錢の作品は初期の頃よりも後の方になって短くなっていく傾向があった。それは、ひとつには表現したいことを能(あた)う限り凝縮したい意欲の表れであったろう。でも、その裏に体力的な問題もあったのではなかろうか。闘病生活15年、病状は徐々に進んで行き、詩人の体力は次第に衰えて行ったのであった。そのことを考えると、病いと闘う詩人はほんとに辛かったろうな、と察するのである。患部のひどい痛みや体力の衰えに耐えながら、1行、1行、なるべく最小限の字数で己れのイメージを形にしていったのではなかったろうか。無論、俳句作品も同様であったに違いない。
 では、短くない詩はダメなのか。いや、そうは言えないだろう。逆に、「誕生」「流逝」「冬の子守唄」等の比較的長い作品は、毛錢の病状が穏やかな時に成立したのかと思われる。そのような時は苦痛が幾分か和らいでいるので、寛いだ状態で、余裕があり、饒舌になることができたかと察せられる。だから、それはそれでまた、毛錢の落ち着いた様子が偲ばれて心和むものがある、と言えよう。
 昭和25年3月9日に35歳という若さで世を去るが、その前日に次の一句を詠んだという。

 貸し借りの片道さえも十万億土

 これが、毛錢の最後の作、辞世の句である。今回久しぶりに目にしたが、「貸し借りの片道」すなわち現実の自分が生きてきた道、それすらが「十万億土」、極楽と等しいものであった、とでも言いたかったのであろう。実にスケールの大きい詠であり、35歳の若さの病人はこのような一句を吐き出して粛粛とあの世へと旅立ったのだ。つくづく感心してしまう。

 
 

水俣市陣内 淵上毛錢の住んだ町内。昔も今も、落ち着いた静かな雰囲気の界隈である。