第435回 火砕流の思い出

前山光則 
 
 淵上毛錢が結核性股関節炎と闘いながら遺した俳句や詩作品を読み直しているうちに、自分自身が生まれて初めて入院・手術を経験した時のことが思い出されてきた。かつて第391回「最初の時は」で触れたことなのではあるけれども、ここであえてもう一度ふり返ってみたい。
 それは、平成3年(1991)、43歳の時であった。
 前年の冬に入った頃からだったか、喉の奥の方に、痛みというほどのこともないが、やや違和感を覚えるようになったのである。なんというか、チリチリ、チリチリ、とした感じ。いっときのことかと気にしないでおくつもりだったが、平成3年に入って冬が終わり、春を過ぎてもチリチリが一向に止まない。気にし始めると、落ち着かなくなった。女房は、すぐに病院に行ってみるのが良いよ、と言ってくれた。娘を出産するとき乳癌に罹り、苦しんだ経験があるので、少しでもどうかあれば病院に行ってみることだ、と意見してくれたのである。
 それで、6月1日に八代総合病院(現在の熊本総合病院)に出かけて診てもらったところ、甲状腺の細胞を摘出しての検査が行われた。あの時は、喉にブスリと針を刺されて、ひどく気味悪かった。そして翌々日の6月3日に検査結果が出て「甲状腺癌」と判明し、ナ、何ということだ、とビックリしてしまった。自分が癌患者になるなどとは、まったく意外や意外、ひどくショックであった。
 その日の日記には、「あと何年生きることができるか」と、えらく大袈裟な、気弱な思いを吐露している。とにかく、病気の進み具合によっては手遅れとなっているのかも知れぬ。そうであれば、自分は死を覚悟しなくてはならぬのか、と、すっかり怯えきっていたのである。
 それまでわたしは、幼少の頃はわりとひ弱ですぐに風邪引いたり、腹痛をおこしたりしていたものの、小学4年生頃からウソのように健康になり、健やかに育った。病院で手術を受けたり入院したりなどすることもなく、大人になることができたのであった。そんな自分が、まさか入院・手術が必要な病気に罹る、それも癌を病むことになろうなどとは、ほんとに全く予期せぬ、思いもよらぬことであった。
 そして、ちょうどその検査結果が出た6月3日には、長崎県の雲仙普賢岳の大噴火によって火砕流が発生した。今度ウィキペディアで調べてみたら、普賢岳の噴火は前の年つまり平成2年11月17日に始まっている。実に198年ぶりのことであったらしいこの噴火活動は平成7年まで続いて、その間、火砕流は9732回も発生し、土石流も62回だった由である。死者・行方不明者44人、建物の被害9432棟に上ったというから、あれはまことに大変な火山災害だったのだ。
 さて、癌を宣告されたその6月3日は、夜、娘が寝た後、女房と一緒にワインを飲んだ。テレビでは普賢岳の火砕流の様子が映し出されて、大変な状況であるということが察せられた。日記にも、「雲仙、火砕流ついに起きて、犠牲者が出てる由」と書いている。ただ、自分としては癌の宣告を受けたことの方がひどいショックであり、テレビニュースにじっくり注目する余裕がなかった。かといって、ワインを飲んでもなかなか酔えなかった。でも、飲まないと不安でしかたなかった。癌の経験者である女房がしきりに慰めてくれるものの、すっかり落ち込んでしまっていた。
 入院したのは、6月5日。二日目になって具体的なことを主治医から知らされたのだが、右の方の甲状腺に癌の塊りが二つできている、とのことであった。だから、右の甲状腺を全部切除する、つまり、甲状腺は左の方だけになってしまうのだそうであった。
 6月8日になって、「雲仙の火砕流、今日、今までで最大規模のものが発生した由、テレビはそのことばかり」と日記に記している。この日は夜の7時過ぎ頃に普賢岳が噴火して、大火砕流が山麓一帯を襲ったのである。
 手術を受けたのは、入院して一週間目の6月12日であった。 
 その前夜、夢を見ている。それは、自分が湯前線(現在のくまがわ鉄道)の汽車に乗っているのであった。汽車に揺られていたが、途中の駅で顔なじみの同級生がいるのが見えたので、下車した。ひとしきり世間話で賑わった後、次の汽車はいつ来るのか聞いたら、まだずいぶん時間があった。傍に女房がいたので、
「これだから汽車ってまどろっこしいよな。この次は車を運転して来ような」
 と言ったら、女房は、
「でもお、……」
 なんだかはっきりしない返事である。何か分からないので聞き返したら、
「それを‥‥して……しなくちゃいけないでしょ」
 などと呟く。何を言いたいのか、さっぱり分からない。
「エッ、何て?」
 と聞き返したが、女房は返事せず、スタスタと立ち去って行くではないか。わたしは追いかけながら、声をかけた。でも、もう答えてはくれず、ただただスタスタと早足であった。わたしはすっかり焦ってしまった。
 ――と、こんなふうな夢であった。
 看護師さんから精神安定剤を渡されていたから、それを服用して寝たのであったが、薬に助けられて眠ってもこうして変な夢を見てしまうのがオチだな、と、なんだかイヤな気持ちになってしまったことを覚えている。
 12日の手術は真昼間に行われたが、手術室に入ってベッドに横になったら、お医者さんから、
「眠くなってきますよ」
 と声がかかり、実際アッという間に眠り込んでしまった。目覚めたのは夜の7時過ぎだった。無論、手術は昼の内に終わっていたのである。ジリジリした痛みが続いて、夜の間、なかなか寝つけなかったのを覚えている。これからの自分がどうなって行くのか、ひどく不安であった。
 6月26日まで入院していたから、病院には三週間厄介になったことになる。その間、実に退屈な日々が続いたのであったが、ただ、病室からの眺めには格別のものがあった。6月16日、日記にこう書いている。
「今日、朝から快晴。雲仙岳がはっきり見えた。噴煙も、火砕流が山肌を駆けた跡も」
 こうした記述を辿ってみると、ああ、ほんとにそうだったよな、と、しみじみと記憶が蘇ってくるのである。
 不思議なことに、噴火や火砕流が一番凄かった6月8日については、あまり記憶に残っておらず、むしろ、その後のことが頭にはりついている。それは、病室でベッドに横たわっていると、窓からははるか彼方、北西の方角に雲仙方面が見えるのであった。そして、それを眺めていると、普賢岳から雲煙が立ちのぼるし、火砕流が流れ落ちる。そんなふうな火山の様子が一目瞭然であった。それだから、6月8日夜の一番凄かった噴火の時を覚えていそうなものだが、まったく記憶にない。とにかく、さほど活発でない時の景色の方をとても印象深く覚えているのだから、不思議である。
 それも、夜になってからの眺めが実に格別であった。カーテンを開けると、暗闇の向こうの方に雲仙の山容が黒々と確認できる。すると、山頂から細くて赤いものがダラダラとダラダラと流れ落ちるのだった。絶えることなく、赤々と、火砕流の帯が山のてっぺんから麓へとくねりながら続く。そのような夜の景色を、病室の窓辺でついつい見とれてしまっていた。
 そして、今でも不思議でならぬのであるが、火砕流の赤々としたダラダラを見ていて、なんだか妙に元気が出ていた。ほんとは、癌におののきながら、もしかして死なねばならぬのかしれない、とひどく怯えていたのである。わたしは臆病者であり、淵上毛錢のように自らが死を間近かにした時に「貸し借りの片道さへも十万億土」と辞世を詠むような度胸が、まったくなかった。死なねばならぬかも知れない、などと想像するだけで、身も世もなく怖かった。ところが、なぜか夜の普賢岳火砕流の赤々とした帯には、世にも恐ろしい現象と受け止めて怯える一方、なぜかしら元気づけられていた。まるで、「お前は生きよ、元気出せ」と呼びかけられているかのような気分にもなっていたのである。そんなふうな自分の心の動きが、我ながら大変不思議であった。なんだか、窓際で、すっかり時間を忘れて見入っていたなあ、と、今、奇妙な懐かしさで思い出される。
 普通に考えれば、44人もの人間を呑み込んでしまった恐ろしい火砕流、ああいうものに襲いかかられたら、堪らない。普通に考えれば、「お前は死なねばならぬ」との呼びかけが迫ってくるのが当然ではなかろうか。実際、普賢岳の夜景はそのようにも怖い、死の恐怖が襲ってきてもおかしくない景観だったのである。ところが、まるで反対の方へと誘われたような気分になってしまうのだから、ほんとにまことに不思議であった。「生きよ、元気出せ」との促し。あの病室に居た頃の自分は、どうしてあのような思いになっていたのであったろう。
 今でも、そう、自分自身の心の中が分からない。

近所の水田 あまり広くない水田だが、早くも苗が植えてある。