前山光則
9月22日と23日、一泊二日で友人たち4人と一緒に人吉盆地へ出かけた。そして、盆地内のあちこちを楽しく観て巡ったのだが、二日目、多良木町の青蓮寺(しょうれんじ)というところに立ち寄ってみた。
ここは阿弥陀堂がとても立派な建物である。上相良(かみさがら)三代頼宗(よりむね)が、永仁3年(1295)に初代頼景(よりかげ)公菩提のため創建したと伝えられており、それを友人たちと一緒に拝観したのである。運良く観光ガイドさんが団体見学客のために説明してくれているところへ行き合わせたから、みっちり学習することができた。しかも、参拝客の中には多良木町に住む高校時代の同級生も混じっており、
「おう、久しぶりじゃなかね」
と声をかけてくれたので、
「なんだ、あんたも来ておったとな」
互いに喜び合ったことであった。
それに、寺の墓地の中にはとても大きな焼酎墓がある。球磨焼酎を呑みまくった男性のために、大きな徳利の上に盃を被せたかたちの墓碑だ。このような立派な墓碑を建ててもらうなら、飲んべえ冥利に尽きるというものであろう。
いや、あと一つ忘れてならぬものがあったのだった。寺の境内に入ってすぐ左横のところに句碑が建っており、見ると、おや、ま、実に懐かしい御名前ではないか。
金の箔おくごと秋日笹むらに 上村占魚
そうか、ここには上村占魚(うえむら・せんぎょ)さんの句碑があったのか! いやあ、久しぶりにこの人の句を目にして、若かった頃のことが蘇ってきた。
この「金の箔……」の句、秋の日が、まるで金の箔が燦めくかのように笹むらに降り注いでいるわけか。ちゃんと写生が行き届いており、しかも色彩感が溢れていて、さすが占魚さん。著名な俳人である以前に、実は知る人ぞ知る腕利きの蒔絵(まきえ)つまり漆芸(しつげい)の専門家でもあった人。本職と俳人としての立ち位置とがピッタリ合った一句だな、と感心した。
高校時代、この人のことを知って驚き、作品も読んだ。さらに、図書館で占魚氏の住所を調べて文芸部誌『繊月』を送りつけ、「批評してください」と頼んだのだったが、そしたら100ページ近い『繊月』をちゃんと隅々まで読んだ上で、丁寧な批評の手紙をくださった。まことに嬉しくありがたいことであった。
ただ、その頃も今も「上村占魚」という名はあまり知られていないのではないだろうか。この人は、本名を武喜という。ペンネームは、「鮎」という字を「占」と「魚」に分けて「占魚」である。大正9年(1920)9月、人吉市紺屋町に生まれている。家は、今でも名店として名の高い鰻料理屋である。17歳の時に俳句に目覚めたという。19歳で熊本市立商工学校を卒業し、東京に出るが、東京では歌人・斎藤茂吉に写生の教えを乞うし、亀井勝一郎、小島政二郎、芥川比呂志、久米正雄、太宰治等々と交流する。そして、昭和19年(1944)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸技術科を卒業し、群馬県立富岡高等女学校の図画教師となった。しかしながら、翌年、戦時下の図画教育の在り方について軍国主義の女学校長と意見が対立し、辞職する。以後は、俳句の師匠である高浜虚子の援助等があり、文筆で生計を立てていく。句集『鮎』『球磨』『萩山』『上村占魚全句集』等の他、随筆や評論も『壺中の殿堂』『沖縄の海を歩く』『會津八一俳句私解』等を著して活躍し、平成8年(1996)2月29日、逝去。享年76であった。
わたしがこの人の存在を知ったのは、高校時代であった。学校の図書館で上村占魚句集『鮎』『球磨』等を読み、ビックリしたのだ。
人の顔見つつたべゐる夜食かな
友死すと掲示してあり休暇明
一茶忌や我も母なく育ちたる
ふるさとは山をめぐらし水涸るる
酒のむときめて押したり萩の門
ふるさとや粗にして甘き草の餅
ちらほらと村あり紅葉いそぐなり
虎落笛(もがりぶえ)ねむれぬ病(やまひ)我にあり
日足伸ぶ雪ある山になき山に
ひねもすの時雨をめでて妻とある
昭和21年(1946)12月刊行の第一句集『鮎』から引いてみたが、その頃の占魚氏は26歳であったことになる。一句目「人の顔……」は昭和12年(1937)に詠まれており、なんとまだ17歳であったという。これは多分、人吉から勉学のため熊本へ出て、よその家に厄介になっている折りの句であり、その頃は遠慮がちに食事せざるを得なかったものと思われる。だから、やはり目の前にいる人の顔色を窺いながら夜食をとっているのだろう。そのような時の微妙な緊張感というか、気の引ける思いというか、さりげなく表現されているではないか。
二句目「友死すと……」はその翌年の作であるから、占魚氏は相当に早熟、いやそれどころか天才的な詩才の持ち主だったと言えないだろうか。七句目や九句目は、さりげなく詠んでありながら写生が利いており、さすがだと思う。
平易な言い回しであり、しかも写生に徹する詠法は、師である高浜虚子の教えに習ったものであるに違いない。それに加えて占魚氏ならではの叙情が流れており、三句目「一茶忌や……」には母親を早くに亡くした悲しみがさりげなく詠まれている。五句目「酒のむと……」では飲んべえとしての面目が表れており、十句目「ひねもすの……」の愛妻家ぶりは微笑ましい。
つまり・写生精神+叙情、これが俳人・上村占魚の本領だと言って良い。
わたしは占魚氏の生家である鰻屋のすぐ近くに生まれ、小学校5年生の夏までを過ごした。自分の生まれ育った町内からこのような天才的な逸材が出たのだということを知り、たいへん驚いたわけであった。
高校の文芸部誌を送り、批評してもらったことがきっかけで、上京してからは東村山市萩山の御自宅に何度もお邪魔した。占魚氏は、お忙しい毎日だったはずだが、いつも快く迎えてくださり、あれやこれやたくさんのことを語り、教えてくださった。そして、うまい酒を飲ませてくれたし、奥様の手料理をご馳走してもらった。懐かしい人である。
占魚氏の主宰する俳誌「みそさゞい」の昭和43年(1968)一〇月号には、「余韻ある俳句」と題したわたしの一文が載ったこともある。これは、氏の句集『萩山』中の好きな作品「春眠のゆめでよかりし涙かな」「潮の香もなくはろばろと海氷る」「雉馬は赤くかなしや春の市」等について、感想を記したのだった。今となっては若書きの、恥ずかしい一文であった。
大学を卒業して田舎へ帰ってからは、時折り手紙を書く程度のおつきあいしかできなかったが、人吉市内の路上でバッタリ出くわしたことがあった。
それは、平成4年(1992)の春まだ浅い頃であったが、
「先生、今回はどんなご用で帰って来られましたか」
と聞いたところ、
「うん、球磨川水源地を目指したんだがね……」
妙に歯切れ悪い返事だった。それもそのはず、誰か先導する人もいたのだが、
「源流の谷は道が険しくてねえ。途中で引き返して来た」
と仰るではないか。おやおや、まあ、何ということだ。球磨川水源地へ登りたいのなら、わたしに言ってくだされば、その頃にはもうすでに10回以上はあそこへは行っており、馴染みの谷だ。声をかけてほしかったなあと思った。
水源探訪のことは、占魚氏は句に残しており、平成9年(1997)刊行の句集『玄妙』に、「球磨川の水源地を探る」と詞書して2句収められている。
春陰の岩吹き出づる水の銀
木の芽谷もんどり打つて光る水
周辺の水上村古屋敷での句もあり、「鳴澤の岩吹き出づる水の銀」「春の瀧われを迎えて高らかに」、こうした占魚氏の詠、やはりなかなかなものだな、と思う。
青蓮寺で占魚句碑に出くわして、そのような色々の記憶が久しぶりに蘇ってきた。
能暘石編著『熊本の文学碑』によれば、青蓮寺の「金の箔おくごと……」が刻まれた句碑の建立は昭和57年(1982)だそうである。建碑者については、「発起人高田素次・宗像夕野火」とある。「当時、占魚が郷土を代表する俳人でありながら、人吉・球磨地方にその句碑がなかったことから、地元の有力な俳人たちによって建てられた」のだそうだ。確かに、占魚句碑はあちこちに建てられ、とりわけ群馬県方面には多いかと思われるが、出身地である球磨・人吉方面ではそれまで一基も見られなかったのである。
昭和59年(1984)9月に舷燈社から刊行された句集『かのえさる』を見ると、青蓮寺境内に句碑が建った時には、占魚氏は、「祝餅(ほがひもち)撒くやふふめる梅目がけ」との句を詠んでいる。よほど嬉しかったのであろう。
そして、この青蓮寺に建てられて以後は、昭和62年(1987)冬、人吉市温泉町の旅館翠嵐楼(すいらんろう)の玄関前にも、
おぼろ夜の球磨の川鳴りまろやかに
との句を刻んだ句碑が建てられた。これは、昭和61年、占魚氏が翠嵐楼に宿泊したとき詠んだ句なのだそうだ。