第448回 権妻の「権」について

前山光則 

今年も、12月。月日というものはなんでこうも速やかに過ぎ去ってしまうのだろうか、と、溜息がでてしまう。
 さて、もうずいぶん以前からなのだが、月に一度、御婦人たちの読書会に出向いて講師を務めている。
 つい最近までその読書会のテキストとして石牟礼道子さんのエッセイ集『魂の秘境から』を使っていたのだが、この本の後半部に載っている「食べごしらえ」、これは食いしん坊であった石牟礼さんの面目躍如、実に味わい深い一文だ。その中で、石牟礼さんは入院中である。病院で食わされる流動食を「とろみのついた粥状の病院食も、飲み下しやすいように工夫してくださったもの」と一応感謝しつつ、しかし「ありがたくいただかねばと思いながら、添えられた鯛味噌にばかり匙が向かうのは、我ながら困ったことである」とぼやいている。いや、ほんと、粥状の病院食などよりも鯛味噌の方がそそられるというのは、人間としてごく自然なことであろう。そして、こう続く。

「鯛と言えば、幼いころの忘れがたい味がある。祖父はある時から、水俣のわが家にほど近い湯の児温泉で権妻(妾)さんと暮らすようになったが、おきやさまというその女性には、ことに煩悩をかけて(かわいがって)いただいた。祖父を訪ねて、母に手を引かれるわたしを見つけると、『ごっつしゅう(ごちそうしましょう)、みちこしゃんにごっつしゅう』と、いそいそし始めるのである。」

 なんだか、それこそ「いそいそ」した筆致である。おじいちゃんを訪ねて来る幼い「みちこしゃん」は、おきやさまから見てよほどに可愛かったものと思える。
 それで、石牟礼さんの回想によれば、おきやさんは、青光りのする新鮮な鯛を捌いて、湯気の立っている御飯の上に厚い刺身を4、5枚載せる。そして、鉄瓶の口から熱い湯をしゅうしゅう噴き出させて、琥珀色の「手醤油」を垂らしてから蓋をする。しばらくして蓋をとれば、「いい匂いが鼻孔のまわりにパッと散り、鯛の刺身が半ば煮え、半分透きとおりながら湯気の中に反っている」、つまり、立派に鯛茶漬けができあがっていた、と石牟礼さんは懐かしむ。
 読む側としても「いや、こりゃあ実にうまそうだなあ……」と、ついつい食欲をそそられてしまうのだが、しかし、それはそれとして、である。「みちこしゃん」に「ごっつ」してくれていたおきやさまという心優しい「権妻」、石牟礼さんは括弧をつけて「妾」と読者のために記してくれているが、この一語は少年の頃によく聞いていたなあ、と、思い出が蘇ってきた。
 「ゴンサイ」という語は、ふるさと人吉で時折り耳にしていたのであった。わが家は母が美容院をやっていて、小学生の頃よく手伝いをやらされた。すると、客と母とが、
「うんにゃあ、マイヤマさん。あのですな、あのオナゴは気が強かとですよ」
「あらま、そぎゃんですか」
 母が客に答えると、
「頭も良か。賢こかですもん」
「おろ、まあ」
「そっじゃっでから、なあ、マイヤマさん、あのオナゴはゴンサイが務まるとですばい」
 と客が言う。すると、母は、
「そっだけん、奥さんの方も、ゴンサイにゃ勝たっさんとでしょうねエ」
 しきりに頷くのであった。
 客と母との間で盛んに話題となっていたこの「ゴンサイ」、はて、何だろうか。不思議な響きがあった。
 どういう字を書くのか、やがて誰かが教えてくれたのだが、「権妻」である。そうであれば、母とお客さんとの間で話題にされている「ゴンサイ」というのは、エーッ、「権力」を持つ「妻」なんだ。そしたらば「強か奥さん」ってことになろう。
 幼かったわたしとしては、頭が混乱するのであった。わたしは、かなり長い間、「ゴンサイ」はかかあ天下、つまり「強か奥さん」だと思い込んでしまった。
 それが、ある時、そう、中学生となってからではなかったろうか、突然に真相が判明した。「ゴンサイ」とは、何のことはない、二号さん。つまり正式な「妻」ではない。そのことを知った時、ははあ、母と客の話、あれは「二号さん」、つまり「お妾さん」のことだったわけだ、と、ようやく理解したのであった。
 母の仕事を手伝うのは、6歳上の姉は病気がちだったし、4歳上の兄は逃げ回っていた。わたしの場合も、母から手伝いを頼まれた時に素早く姿をくらますならば楽できただろうが、なぜかぼんやりとした子どもであったために、
「ミツノッチャンなお利口さんじゃもんねえ」
 などとおだてられ、母の美容室の中であれやこれや手伝わされていたのであった。しかし、そのように美容室内にあどけない少年がいるというのに、母たち大人のオナゴ衆は平気で「ゴンサイ」についてなまなましく噂話をしていたわけである。
 「権力」という場合の「権」は、力、物事を思い通りに処置する威力、というほどの意味合いであろう。幼い頃のわたしは、この「権」の方しか知らなかったので、「権妻」ならば「権力を持った妻」というイメージを持ってしまっていたのであった。だから、母が客にパーマネントを施してやりながら話題にしていた「ゴンサイ」さんのことについては、強いオナゴさんのこと、としか考えていなかった。幼かったし、愚かであったよなあ、と、今、しみじみ思うし、懐かしくなってしまう。
 本当のところ、「権妻」という場合の「権」は、「仮」ということを表わす。官位を示す語に冠しては、「権大納言」だとか「権禰宜」だとかいうように、「権」は定員外に仮に置いた地位を表すことになる。「権現神社」という場合の「権」も同様であろう。つまり、本来のものに準ずる、というほどの意味なのであり、子どもの頃のわたしは、まだそのような意味合いをまったく知っていなかった。
 ちなみに、この頃ある辞典で見てみたら、「権妻」のことを「仮の妻の意」と説明した上で、しかもこれは「明治初期の語」とある。「妾」のことを意味する「権妻」が明治時代の初期の頃に用いられた語であるなどとは、今度辞典をめくってからはじめて知らされて、興味深かった。何か明治という時代の大きな変動と絡み合って、そのような語も用いられたのであったろうか?