第15回 淵上毛錢と俳句

前山 光則

 熊本県水俣市に住む書道家の渕上清園氏が、淵上毛錢の全集(全1巻、昭和47年国文社刊)未収録俳句一覧や収録句の誤りをチェックしたメモ等を送って下さった。ありがたいことである。清園氏は毛錢と同姓だが、親戚でも何でもない。ただ純粋に淵上毛錢の詩の世界に惚れ込み、書道家としての活動のかたわら研究してこられたのだ。
 清園氏がこれまで見つけた全集未収録俳句は89句であるが、毛錢ならではの才気があってやはり面白い。

  花粉散りきのふのままの落椿
  逆境を花と抱いて神の前
  これから先も生きるつもりの土用灸
  短か日や村に過ぎたる大一座
  もの陰へもの陰へと蟹幼かり
 
 こうした句などは、なかなかのものだ。特に「逆境を……」「これから先も……」は毛錢の闘病生活が反映されていて切ない。

 それから、全集に「墨の歴史を語れ青き麦かな」という意味不明な句が収録されている。清園氏が毛錢自筆のものをコピーして下さったものを見ると、なんと1句の末尾に「かな」がない。全集は没後22年経ってから刊行されているが、なんでまた余計な「かな」がくっつけられたのだろうか。そして清園氏は、「墨」は重ね書きしてあるだけで、本当は「黒土」ではないか、とおっしゃる。さて、「かな」を取り除き、「墨」を「黒」と「土」とに切り離せば、次のようになる。

  黒土の歴史を語れ青き麦

 なるほど、これだと自然な「俳句」である。
 淵上毛錢は東京で放浪の生活を送っていたが、20歳の時に結核性の股関節炎となって歩けなくなった。以来、故郷の水俣で闘病生活を続け、昭和25年に35歳の若さで世を去った。寝たきりの闘病生活を続けながら「縁談」「寝姿」等の詩が注目を集めて水俣に詩人・毛錢ありと謳われたが、ただ、毛錢の文学は俳句から出発しているのだ。病床生活の気晴らしにどうか、と周囲から勧められて俳句をひねるうちに詩の方にも興味が広がった、というのが順序としては正しい。
 そう言えば、今、夏真っ盛りだが、暑さを詠んだ句に良いのがある。

  からみつつ胡瓜の生きる暑さかな

 毛錢についてはこれまで詩の方ばかり親しんできたが、俳句作品にもちゃんと目を向けなくてはいかんな、と考えさせられたことであった。

▲我が家の庭の胡瓜。
曲がっちゃいても、けなげに胡瓜なのである

2010年8月2日