第32回 人間死ななかったら

前山 光則

 今年もいよいよ終わろうとしており、テレビや新聞では「この一年」だとか「十大ニュース」とかのタイトルを掲げて1年を回顧している。やはり、区切り目に締めくくりをするというのは大事なことではあるのだ。
 それで、わが身を振り返ってみたものの、今年1年、幼馴染みや同級生が何人も亡くなった。癌を病んで、それが手遅れでついに逝ってしまって……といった切ないことばかりが甦ってきて、改めて胸が痛んだ。何人かが60歳代前半で世を去ったのだ。つい4、50年前までは、60歳代の死は「大往生」とまで扱ってもらえなくとも「若死に」ではなかった。なにせ昔は「人生50年」との言い方があったのだ。しかし、平均寿命が伸びた今日、60歳代前半はまだまだ先がある。それなのに亡くなってしまうのは、いかにも早すぎる。幼馴染みや同級生の顔がちらついて、かわいそうで仕方がない。
 だが、書店で文庫本の棚を見ていて深沢七郎・著『生きているのはひまつぶし』というがあったので開いてみると、いきなり最初から、
「人間、死ななかったらとんでもないことになる。必ず死ぬことがわかっているから、人は毎日生きていられる。永久に死ななかったらたいへん。年をとるから、若い時代が楽しいし、死ぬことはほんとにありがたいことだ」 
 と書いてあった。この作家はどのような辛苦や懊悩(おうのう)を経てこのようなカラリとした死生観を身につけたのだろう。なんだか、スーッと気が楽になったから不思議である。そうなのだな、人間、必ず死ぬ。死ぬから、生きている間のことが楽しい。死なないと、たいへんなことになってしまう。知人友人が逝ってしまったことは寂しいけれど、悲しむばかりでは何も良いことないのだ。
 そして、この1年間の楽しかったこと―今年は良い人に出会えた、おいしいものを食べた、旅に出て今まで行ったことがなかった名所を見物できた、娘が新しい仕事に就いてえらく輝いている、美人につきあってもらって家族で大相撲見学ができた、美人がわざわざわが家へ遊びに来てくれた、カラオケで騒いで喉が嗄れてしまった等々、楽しい思い出ばかり甦って来て、なーんだ、この1年なかなか愉快だったではないか。久しぶりに深沢式説法を聞いたので、この人の「楢山節考」や「笛吹川」等の小説を読み返したくなった。
 というわけで明るい気分になり、昨日は熊本市まで出かけて買い物をし、夜は行きつけの居酒屋の忘年会にも加わったのだが、町なかを歩いてみて訳もなくセカセカ浮き浮きするのだった。別にいつもとたいして変わらぬような雑踏なのに、不思議なものである。ひょっとして、これが歳末気分という奴?

▲熊本市繁華街。まだ午後6時ちょっと前の
繁華街である。みんな家路を急いでいるのか、
それとも忘年会に行く途中なのだったろうか