第154回 川としか言わん

前山 光則

 前回に続いて教師時代の思い出話である。 
 多良木高校の水上分校に昭和50年4月から54年3月までの4年間、勤めた。ここは球磨郡水上村、市房ダムの近くに立地していた。年度当初、家庭訪問する時に必要なので生徒たちの家から学校までの道順が分かるよう地図を描かせる慣わしだったが、M君の地図は簡単すぎた。とりわけ、曲がり気味の線が描かれ、「川」とだけ記されている。川の名を聞いても、「川としか言わん」との答え。「名前がついているだろうもん?」と意見したが、「ばってん、川じゃもん」、彼も困った顔である。そこで実際に連れていってもらったところ、球磨川に流れ込む支流の一つで国土地理院の地図には「白水川(しらみずがわ)」と記されていることが判明した。「ここは白水川てじゃなかや」と諭すと、それでも「川としか言わんもん」、すねている。そんなふうな会話をしてみて分かったが、彼は村の中の商店や公共施設やらを単に「店」「旅館」「学校」としか呼ばぬ傾向があった。白水川を「川」としか言わず、買い物をする店でもつきあいのある旅館でも「店」「旅館」で事が済む、これが彼の小宇宙なのであった。
 この一件以来、M君と仲良しになった。ただ、彼の地図を頼っていても家までたどり着けそうにないから、放課後、同僚の車に彼もわたしも便乗して家庭訪問とは相成った。すると、水上村から宮崎県椎葉村へと越えていく不土野(ふどの)峠の頂上までまだあと10分ほどというところで車を道端に置かなくてはならなかった。「ここからは歩くとよ」とM君は言う。彼のあとをついて薮の中の踏み分け道を辿って進んだら、やがて目の前に忽然と茅葺きの立派な家が現れた。まさに山の中の一軒家である。車も入って来れぬところなのに、電気は通じているという。庭は雑草ひとつ生えておらず、きれいに掃き清めてあって、家の中には日焼け顔のお父さんお母さんがおられた。座敷へ上がらせてもらう前に、M君がわたしたちを納屋へ引っ張っていった。納屋の天井近くの棚を指差すので見上げると、大きな青大将がとぐろを巻いている。「これは大人しかとばい」とM君が自慢そうに説くには、青大将は鼠を捕るのが上手である。だから、わが家にとって穀物を守ってくれる、ありがたい動物だ、というのであった。
 M君は魚釣り名人であった。「川」つまり白水川が彼の釣場だった。ただ、彼は魚類をあまり食わず、むしろ肉の方が好きで、自分で釣ったヤマメは冷凍して貯め込んでいた。だから時折り肉屋で豚足を買ってM君の家に遊びに行き、彼のヤマメと交換してもらっていた。たまには獲れたてをわけてくれたりして、山の中での物々交換は楽しみだった。
 水上村の山中に生まれ育った自然児M君、もうすでに50歳台の半ばぐらいにはなっていよう。さて、今頃どうしているかなあ。

▲朝の青田。梅雨明けてからずっと雨も降らず、実に暑い。しかし、朝早く散歩すると、近所には青田が広がる。涼しくて気持ちが良い