第196回 舞鴫文殊堂にて

前山 光則

 先月のある日、近所のT氏とAさんから「青葉木莵(あおばずく)を見に行こう」と誘われた。青葉木莵は東アジアに分布する鳥だが、夏場になると日本へ来るのだという。へー、あれは渡り鳥なのか、と興味が湧いた。
 T氏の車に乗り込んで約30分、宇城(うき)市の町なかから右に折れて山間部へ入ったところに舞鴫(もうしぎ)という集落がある。このあたりは棚田が多く、石垣が目立つ。坂道に沿って立ち並ぶ家々もおおむねていねいに積まれた石垣の上に載っかっている。こじんまりした集落だ。坂の上の方にお堂があって、舞鴫文殊堂と呼ばれているそうだ。お堂を護るようにして椋と銀杏が聳え立っており、青葉木莵もここに宿っているのだという。ひとしきり見上げてみたが、それらしきものは見えない。昼間は他のところにいるのだろうか。涼風がそよろと吹いて、心地良い。
 その文殊堂だが、扉を開けて内部を見ることはできない。お堂の横に案内板があるので読んでみると、文禄2年(1593)、朝鮮の役の際に加藤清正の軍についていった舞鴫の武士たちが、朝鮮京畿道の文殊寺というところから勧請したのだそうだ。どのようなかたちでの「勧請」だったのだろうか。案内板の説明だけではよく分からなかった。それはそれとして、「文殊堂」とはいうものの文殊菩薩の他に阿弥陀如来、秋葉明神、生目八幡も合祀されているというから、神仏混淆である。明治維新の頃の廃仏毀釈の際には災厄に遭わなかったのだろうか。お堂の外の境内には水神と猿田彦神も祀られており、賑やかである。賑やかといえば、境内の脇に五角形の絵馬がいっぱい飾られ、それらすべてが高校とか大学等への合格祈願や会社への就職祈願だ。「ごかく」と「ごうかく」、なにやら語呂合わせも良いゾ、などとおもしろがってそれらを見ていたら、Aさんと女房が灯籠の方を向いて感心している。見ると、それを奉納した人はシベリアからの帰還兵である。「昭和23年12月復員」と柱に記されており、それならばこの人は敗戦後の3年余を極寒の凍土地帯に抑留されていたのだ。さぞかしつらかったことだろうし、帰還できた時の喜びも大きかったはず。胸が締めつけられた。
 お堂の下の坂道沿いに句碑を見つけた。自然石に「冬枯れや石垣多き峡の村」と刻まれ、石垣の上に載っけてある。句碑の下に設けられた説明書きによると、作者は伊佐敏郎という人で、平成3年5月13日に建立されている。句碑建立顕彰会40名の名が連ねられている。こんなに多くの人たちから支えられて句碑が建った伊佐敏郎という人は、よほどにまわりから慕われていたのだろう。石垣多き峡(かい)の村。山あいにこういう堂宇や集落があるとは今まで知らなかったなあ。
 青葉木莵に出会えなかったことが少し心残りだったが、いやまあ、また来ればいいか。
 
 
 
写真①舞鴫文殊堂

▲舞鴫文殊堂。本堂の背後に椋の大木。画面では見えないが、左に銀杏が聳えている。お堂の右には玄圃梨(げんぽなし)の巨木もあったが、あんまり大きすぎて付近の家が危なくなったため、伐られたのだという

写真②文殊堂からの眺め

▲文殊堂からの眺め。坂の下は少し左へカーブしており、カーブした先も家が並ぶ。山中にこのようにまとまった集落があるのは、ちょっと驚きだった

写真③合格祈願の絵馬

▲合格祈願の絵馬。こうした絵馬がたくさん並ぶ。だからここは「西の太宰府」だそうだ。確かに、ここで祈願したらわざわざ福岡県の太宰府までお詣りに行かなくて済むのだ

写真④灯籠

▲灯籠。「シベリア生還」とある。「生還」の一語に万感の思いが籠もっているに違いない