第208回 ようやく波が起こった

前山 光則

 宮島繁明氏の力作『橋川文三 日本浪漫派の精神』(弦書房)を、一気に読み通した。
 橋川文三という名はある程度の年齢の人ならば覚えているはずだ。『日本浪漫派批判序説』『歴史と体験』『近代日本政治思想の諸相』等の著作を遺している。三島由紀夫を厳しく批判したが、その三島から畏敬された。吉本隆明と思想的立場を異にしつつも、おたがい尊敬し合った。昭和58年、脳梗塞のため急逝する。享年、61歳であった。だが、この本のあとがきから借りれば、その死後なぜか「『橋川研究の波』は、全くといっていいほど起こらなかった」のである。この『橋川文三 日本浪漫派の精神』は、昭和35年に38歳で『日本浪漫派批判序説』を刊行するまでの橋川の歩みを辿った評伝だ。今、ようやく橋川研究の波が起こったと言える。
 終戦後の数年間を橋川文三がどのように過ごしたか、今まで不分明なことが多かったそうである。著者は「数少ない既出のものには間違いが多い」とし、丹念に検証した結果、少なくとも大学卒業後の昭和20年9月から翌年2月頃までの橋川は「何もしていなかった」と跡づけた上で「敗戦による精神的な打撃は、橋川にとって計り知れないものがあった」と著者は言う。わたしはここに最も深く感じ入った。橋川は、自身の存在を賭けて戦争と向かい合わねばならなかった世代である。一時期、日本浪漫派に傾倒したのは、そのことと必然的に関係している。徴兵検査に合格せず生き残る側にまわらねばならなかった時には、実に複雑な気持ちであった。そんな橋川にとって、終戦によってそれまでの価値観に大転換が生じた時、これは大変な打撃としてのしかかってきた。本書は、その一番苦しかった時期を正確に明らかにしている。
 また結婚前の橋川には女性遍歴があったといわれていたらしいが、これについての考証もしっかり行われている。橋川の先輩である丸山眞男は「昔から橋川君を知っている友人たちは、結婚する前の橋川君の女性遍歴のほうもよく知っているわけです。これはみんなうらやましがったり、あきれたりした」と書いており、つまりまわりの人たちは、橋川は決してドンファンではなかったものの女性からよくもてていた。それが、奥さんを貰ってからは女性遍歴も止んだ、といったような受け止め方をしていたことになるだろう。しかし著者の調べでは事実はその対極、つまり一人の女性との純愛が3年ほどつづいた後に破局を見たのだという。優れた学者・丸山真男も、さらには他の友人たちもこの事実をまったく見通せていなかったことになる。終戦後の数年間の沈黙もこの一女性との純愛事件も、その後の橋川の学問的・思想的な歩みに大きく影響したことは疑えないだろう。
 著者は、学生時代、橋川文三に師事したそうである。本書はよい恩返しとなったのだ。
 
 
 
写真 橋川文三筆蹟 010

▲橋川文三氏筆蹟。昭和54年10月23日消印のハガキ。万年筆による字。本県人吉市を訪れた時のことが書かれている。西郷隆盛について取材するための旅であった。橋川氏は、こういう繊細な字を書く人だったのだ(前山個人蔵)