前山 光則
この連載コラム第269回に添えた湧水の写真は8月2日に阿蘇市的石(まといし)の御茶屋跡で撮ったものなのであるが、その後、8月31日にも同じ場所へ行ってみた。
御茶屋跡の奥、隼鷹(はやたか)天満宮の手前に宗不旱(そう・ふかん)の昭和14年作の歌「隼鷹の宮居(みやゐ)の神は藪なかの石のかけ(破片)にておはしますかも」を刻んだ石碑がある。不旱は友人の案内で御茶屋跡を訪れた際、林や泉の美しさに感動して歌を詠んだのだそうだが、ピンとこない。歌意を確かめたくて再訪したのである。江戸時代に熊本城の藩主・細川綱利公が参勤交代で東上した折り、嵐に遭って船が難航した。その時、船柱に一羽の白鷹(隼鷹)が止まったところ、不思議や嵐がおさまった。その夜、綱利公は夢の中で、あのときの白鷹は隼鷹天満宮の権化である、との神喩を受け、それが的石御茶屋内の社殿建立につながったと言い伝えられているのだが、宗不旱の歌はこの神のことを「藪なかの石のかけにておはしますかも」と詠んでおり、これが分からない。
美人のKさんMさんが同行してくれていて、2人とも御茶屋跡の湧水池や木々の見事さに感嘆の声を挙げた。参勤交代の折り、熊本の殿様が大分方面へ山越えをしてから船に乗って江戸を目指す途中の休憩場所としてここは造られたのだそうだ。立派な庭園であり、紅葉の頃にはまた一層美しさを堪能できるだろう。それにしても、「石のかけ」の意味は何なのだ。地元の人たちがいたから聞いてみたが、首を傾げるだけだ。ところが、駐車場に引き返したら、Kさんが目をキラキラさせて説明板に見入っている。Mさんもわたしもそこへ近寄ってみたところ、おお、なーんだ、書いてある。それには御茶屋跡の1キロ先の地点にある「的石」という石についての由緒が記されており、「阿蘇開拓の祖、健盤龍命(たけいわたつのみこと)が往生岳からこの石をめがけて弓矢の練習をした、と伝わる石」とある。ここ的石地区の地名の由来とされる伝承だ。ははあ、神様が石を的にして弓矢の腕を磨いたのか。不旱は林や泉に惚れ込んだだけでなく、この健盤龍命にちなむ的石伝説にも興を催し、面白がったのではなかろうか。
この歌を詠んだ3年後の昭和17年5月、不旱はこのすぐ近く内牧温泉で「内之牧朝闇いでて湯にかよふ道のべに聞く田蛙のこゑ」との歌を遺した後、行方不明となり、世を去った。享年、58歳。熊本市のど真ん中生まれだが、硯(すずり)職人として各地を放浪した宗不旱。説明板を見ながら、的石地区や内牧温泉あたりはこの放浪の歌人には無視できぬ縁があるなあ、と感じ入ったのであった。
その内牧温泉では夏目漱石や宗不旱ゆかりの場所を散策した。阿蘇神社にも参拝。昼飯には蕎麦を食べ、道の駅では朝採りのトウモロコシを買って帰った。阿蘇はいいところだ。