第275回 橘南谿を読みながら

前山 光則

 最近、必要があって橘南谿(たちばな・なんけい)の『西遊記』を読み直している。わたしにとって愛読書の一つである。
 この『西遊記』は、医術を磨き深めるための旅なのにもっぱら旅先での見聞や土地の風物が物語られる、それがおもしろい。たとえば、だ。肥後人吉の城下に50日間滞在した中で、球磨川の畔り五日町に大きなエノキがあって、木が二股になった部分に空洞ができている。そこには以前から大蛇が棲んでいるそうだ、と南谿は記す。全身、まっ白。「城下の人人は多く見及べり」というが、しかし大蛇と直接目が合えば、その人は病んでしまう。だから、エノキの下を通る時は「頭をたれて通る」のが習慣となっている。もっとも、大蛇は自ら人に向かってくることはないので、凶暴な性格ではない。その大きさだが、胴回りも身の長さも3尺。となると、その大蛇はえらく丸々として、コロンコロンと太っていたのではなかろうか。人吉の人たちはこれを「壱寸坊蛇(いっすんぼうへび)」と呼んでいたそうだから、愛嬌があったのか。
 では、南谿自身はこの大蛇と実際に出会うことができたのかと言えば、「予も毎度其榎木の下に居たりうかがい見しかど、折あしくてやついに見ざりき」、残念、ダメだった。だが、ともあれ大蛇を直接見たくて、人吉滞在50日の間「毎度其榎木の下に居たりうかがい見」るのである。他にも、人吉のちょっと奥の猪鹿倉(いのかくら)にも四斗桶ほどの太さで長さ8、9尺ばかりはある大蛇が捕らえられ、撃ち殺された、と聞いて興味を抱く。ただ、死後だいぶん経っているから「骨のみ見る事も益なし」と、見に行くのは諦めているのだが、好奇心の強さは相当なものだ。
 橘南谿は、宝暦3年(1753)に現在の三重県津市に生まれて、18歳で医術を志し、京に上る。天明2年(1782)、門人一人を従えて医術研鑽のため西遊の旅に出る。兵庫・安芸などを経て九州に入り、博多・佐賀・長崎・薩摩・人吉・八代・熊本・松山などを辿って天明3年の夏に京へ帰着した。さらに天明4年から6年にかけては東日本の方へも出かけたから、都合4年間は旅しつづけたことになる。そして旅の見聞を詳しく記したので、現在、「西遊記」「東遊記」で当時の各地の興味深い話が読めるわけだ。文化2年(1805)、53歳で亡くなっている。
 南谿は、28歳の時に『疱瘡水鏡録』という本を書き、その後も『傷寒論邇言』『傷寒論分注』『傷寒外伝』『雑病奇聞』を著しており、優れた医家だった。琴の演奏にも秀でていた。『国語律呂解』という著述もあって、これは和音階についての解説書だそうだ。医家として秀でていた上に趣味人、色んな方面に貪欲な関心を持ち続けた南谿。人吉城下や湯前の大蛇についての記述なども、そうした南谿の幅広さの中で理解すべきなのだろう。
 
 
 
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▲人吉市五日町辺り。球磨川を挟んだ向こう岸が五日町。昔は毎月五日には市が立っていたのでこの名がある。エノキの大木はどこら辺にあったのだろうか