第十一回 「加藤司書歌碑」もありながら

浦辺登
 
『南洲遺訓に殉じた人びと』11
 
 西公園(福岡市中央区)の光雲神社(てるもじんじゃ:藩祖黒田如水、初代藩主黒田長政を祭神とする)の裏手には加藤司書の記念碑がある。その案内看板には、銅像の加藤司書の写真がある。
 さらに、「加藤司書歌碑」の案内看板もあり、それにも、銅像の加藤司書がある。加藤司書の銅像は金属供出で無いとは聞いていたが、二種類の異なる看板それぞれに銅像が映りこんでいたら、期待するなと言う方がおかしい。
 鬱蒼と繁った樹木の間の遊歩道を進むと、記念碑と歌碑があった。しかし、加藤司書の銅像はない。薩摩の西郷隆盛とともに、第一次長州征伐軍の解兵に持ち込んだ人でありながら、歴史書にも記載されない。長州征伐解兵では、西郷隆盛の名前だけは残っているが。  
 安政元年(一八五四)、幕府は日米和親条約を締結した。ペリーによる強圧外交に屈した結果だった。ここから日本は激動の時代を迎え、万延元年(一八六〇)三月には大老井伊直弼が桜田門外で水戸藩、薩摩藩の浪士に暗殺された。
 文久三(一八六三)年八月に三條実美らの「八月十八日の政変」、十月に平野國臣が関係した「生野の変」、元治元(一八六四)年三月には水戸藩天狗党の決起、そして、七月に久留米藩真木和泉が関係した「禁門の変」と続き、八月に第一次長州征伐の議が起きる。
 加藤司書は征長軍総督徳川慶勝が陣を構える広島に向かった。今は、国内騒乱の時ではなく、一丸となって外敵に立ち向かわなければならない。真の勤皇であれば、長州藩を討つのではなく、征長軍を解散させなければならないと徳川慶勝に説いた。加藤司書は征長軍参謀の西郷隆盛と図り解兵に成功したが、司書の名は歴史に残ることなく、すべては西郷隆盛の策略と記される。
 繰り言になるが、「加藤司書歌碑」の案内看板だけでは、幕末史が見えてこない。
 
 
 
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▲加藤司書歌碑案内看板