第292回 毛錢の最期は……

前山 光則

 淵上毛錢墓前祭や渕上清園卒寿書展のために立て続けに水俣市へ出かけた関係で、あらためて毛錢の作品を読みかえしたり、その詩世界について考えてみたりもした。そして、一昨年11月にわたしは『生きた、臥た、書いた《淵上毛錢の詩と生涯》』を弦書房から出版してもらったのだが、その折り届いた反響の中の一つがあらためて甦ってきた。
「生死の関頭にありながら命の炎が燃え尽きるまで表現しつづけた詩人の明るく、一瞬一瞬を大切に生き抜く姿勢が印象に残る。ただ、自殺説もある毛錢だけに重たい葛藤の掘り下げが欲しかった」(古江研也「散文月評」・「熊本日日新聞」平成27年12月25日)
 これはありがたい御指摘であった。わたしはもっと深く掘り下げて毛錢像に迫るべきだったのである。
 ところで「自殺説」であるが、毛錢自身の書いたものやエピソードやらから自殺への衝迫を匂わせるような形跡は出てこないし、文学仲間や友人たちの回想記の類にもそのような話題は書かれていない。今まで、水俣で調査する時に毛錢本人を知る人たちと会った折りなどにはそれとなく訊ねてみたことがあるものの、やはり毛錢が自ら死を選んだとは誰からも聞いたことがない。それでは、自殺説はどこから出て来ているのだろうか。
 指摘を受けた時、まずは久しぶりに全集をひもといてみようと考えた。わたしは以前に、普及版詩集『淵上毛錢詩集』(平成9年、石風社・刊)を編集した。その際、緒方昇・菊地康雄・犬童進一編集『淵上毛錢全集』(昭和47年、国文社・刊)は作品校閲にも年譜の記述にも誤りが多いことから、編集作業をし始めて間もない時点でこれにはあまり頼れず、ただ参照する程度に止どめるべきだと判断した、という経緯がある。例えば、毛錢の父親・吉清が亡くなったのは大正10年1月8日で、享年44歳。喬(毛錢の本名)が8歳の時だった。しかし、全集では昭和10年1月とされており、14年ものズレがある。あるいは、昭和18年に毛錢の俳句「行き逢うて手籠の底の土筆かな」が「主婦の友」6月号読者文芸欄に淵上家付きの看護婦・田中房枝の名で2等入選作として掲載される。これが毛錢の俳句が活字となった最初の出来事である。だが、全集ではこの出来事は昭和13年のこととされ、しかも「婦人雑誌『主婦の友』の読者文芸に看護婦田中房枝の名で投稿した俳句が二句入選した。これが喬の作品が活字になった最初である」と記され、つまりは初出誌で確認できていないための誤りが生じている。ついでに言えば、俳句・詩等を含めて「喬の作品が活字になった最初」の出来事は、昭和14年に「金魚」という詩が「九州文学」6月号に掲載された時である。こうしたふうで、普及版詩集の編集も評伝『生きた、臥た、書いた《淵上毛錢の詩と生涯》』の執筆も主として毛錢について長年にわたって緻密な研究を続けておられる渕上清園氏に導いてもらいつつ、自分でも資料を読み込むし、あちこちへ調べに行くということを繰り返してきた。
 ともあれ、「散文月評」で指摘されて久しぶりに『淵上毛錢全集』を見てみたのだったが、実は犬童進一氏の執筆による「解説・解題」の中で数カ所触れられているのである。まず、「釣詩稿」という詩について述べた中で、「毛錢はやがて自殺せざるを得ない状況に迫られた時、まことに、あらゆる疑心暗鬼の不幸からも脱却したかったのであろう」とある。次いで、「きんぴら牛蒡の歌」に関して、「私の家の周辺には、毛錢をはじめとして、Tさん、Oさん、Eさん、という風に、近年自殺者が相ついだ」と書かれている。ちなみに、犬童氏の家は、水俣市陣内の真ん中を走る道を挟んで毛錢宅の斜め向かいに位置する。それから、「寒林独座」について述べた中で、「自らの詩の世界を確立するために、わざと病いをおもくし、家計がかたむくのをかたむくにまかせ、しかも自らをいためつけ、自決するのである」と論じてある。また「枝豆」を解説するくだりでは、「子供も三人出来、そのゆく末を思うと、毛錢自身が迷惑をかけて生きているようで、どうせなおらぬ病いならば、早く自決した方が、家族のためになると思った」「死を決した毛錢は、枝豆となり、自然そのものとなり永生への転生を期している」、こういったぐあいである。つまり、毛錢の自殺はすでによく知られた事実、詳しく説明するまでもない自明のこととされているわけだが、犬童進一氏は、なぜこのように「自殺」を自明の前提として記述するのか。どうして詳しく解説することをしていないのだろうか、と首を傾げてしまう。
 ただ、しかし、『淵上毛錢全集』の刊行より5年前、氏は「日本談義」昭和42年7月号に発表した「淵上毛錢―その一側面―」において自殺説を展開している。それは確かなことである。これによると、死去する前の毛錢は「大変苦しんだ由で、その為にミチヱ夫人に睡眠薬をくれと再三希望し、夫人の心を痛めさせたのである」とした上で、
 
「従つてミチヱ夫人は、苦しむ毛錢の姿を見るに見兼ねて、いつそのこと多量の睡眠薬を、毛錢が希望するとおり与えようかという誘惑にとらえられることが多かつたのであろう。見るにみかねての夫人の苦病は、読者にも想像がつくであろうけれども、特にその斜向いの家に住んでいて、時々その苦しみの声が通りにきこえる位であつた毛錢の苦痛を知る隣人としての私は、そのさまが実によくわかるのである」
 
 犬童氏は、近所に住む人間としてこのようにミチヱ夫人の心の内を推量している。ただ、氏の家は確かに淵上家の斜め前にあるものの、間に陣内の大通りが走っている。しかも毛錢は、道から入ったずっと奥のところに二階建ての屋敷があって、その中で闘病生活を送っていた。犬童家までだいぶん距離があるので、苦しみの声が届くだろうか。
 さらに続けて、氏は次のように記す。
 
「その或る日、耐えられぬひどい苦しみを呈していたとき、一寸買物に出かけていたミチヱ夫人の留守時に、ふと枕辺におき忘れて在つた薬物を、毛錢は一気にのんで、昇天したのである」
 
 ここまで辿ってみて、不可解な気持ちが湧いてくる。氏はこのようなことを現場で目撃したのだろうか。あるいは、ミチヱ夫人から直接聞き取ったのであろうか。でも、「淵上毛錢―その一側面―」には、目撃したとも夫人から聞いたとも記されていない。では、ミチヱ夫人は毛錢について思い出話を幾度か発表しているが、そこに披瀝された話かと言えば、違う。ミチヱ夫人は自分の夫の「自殺」のことなど一回も書いていない。とすれば、犬童氏はこれを毛錢の家族や友人たち、もしくは近所の人から聞いたのであろうか。あるいは、誰か研究した人がいて、それをもとにしての記述なのだろうか。しかし、そうしたことが分かるような断り書きもない。話の出どころ、つまり「自殺」の話を裏付ける根拠となるものが全く示されていないという、これが氏の「淵上毛錢―その一側面―」の特徴である。犬童氏は毛錢の死を自殺であったろうと推測しているに過ぎないわけであり、このように推測で人の生死を語っていいものであろうか。「自殺説」として取り扱うには、はなはだ危うい。
 毛錢自殺説について指摘を受けて間もなく、毛錢の姪(姉・代美さんの娘)にあたる宮崎寿子さんに電話で聞いてみたのだが、そんな話はじめて聞いた、と、たいへん驚いておられた。
 毛錢の臨終間際のことについて、渕上清園氏の調べたところでは次のとおりになる。
 清園氏は昭和48年3月2日に八代市在住の毛錢の姉・代美(ヨミ)さんから話を聞いているのだが、代美さんは昭和25年3月8日の夜、弟の容態を案じて水俣の毛錢宅へ駆けつけたのだという。枕もとにはミチヱ夫人の他に4、5人いた。弟の庚(かのえ)氏や、友人の六さんこと本間六三氏なども来ていた。俳優で歌手でもあり、当時水俣に帰っていてしょっちゅう立ち寄ってくれていた深水吉衛氏は、その時は来ていなかった。ちなみに、後に書かれた火野葦平の小説「詩経」(「群像」昭和30年4月号。単行本刊行の際に「ある詩人の生涯」と改題)の中では、毛錢の臨終の際に傍にいてやったのは代美さんだけだったことになっているが、これはあくまでも「小説」である。事実を叙述したものとして扱うわけにはいかない。そして、毛錢は、亡くなる3時間ばかり前、「姉さん、小用が出んけん、今度はどうしたって駄目ばい」と言った。その時間帯には「貸し借りの片道さへも十万億土」との辞世を詠んでいるが、それは誰が筆記したか。少なくとも代美さんは書き写すことをしなかった由である。また、「死ぬ間際に、喀血などはなかった。喬(毛錢の本名)は、早く終われば良か、との自覚は確かにあったようだ。でも、自殺では決してなかった。そんな力はもう残っていなかった」と代美さんは清園氏に語ったそうである。3月9日午前8時10分、毛錢は息を引き取った。これは戸籍謄本の記載と一致する。ちなみに、『淵上毛錢全集』や当時の熊本日日新聞の記事では死亡時刻はなぜか9日の午後7時25分となっている。
 わたしは、代美さんが清園氏に語ったことについて鵜呑みにするつもりはない。ただ、犬童氏の根拠のない推測に比べて具体性に富んでおり、よほど耳を傾けることのできる話だと考えている。
 今日も、毛錢の詩を読んでみた。亡くなる少し前ぐらいに書かれたろうと思われる作品「死算」、あらためて胸に響いてくる。
 
 
  じつは
  大きな声では云へないが
  過去の長さと
  未来の長さとは
  同じなんだ
  死んでごらん
  よくわかる。
 
 
 
写真 淵上毛錢の墓所からの眺め

▲淵上毛錢の墓所からの眺め。ここは秋葉山と呼ばれ、小丘となっている。眼下に見えるのは、毛錢の住んでいた水俣市陣内界隈である