第十五回 幻の薩長筑同盟

浦辺登
 
『南洲遺訓に殉じた人びと』15
 
 慶応二(一八六六)年一月二十一日、京都の薩摩藩邸で「薩長同盟」が成立した。薩摩の西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、長州の木戸貫治(孝允)らが出席し、坂本龍馬が立会人だった。この歴史的出来事に対し、後年、幕臣から新政府の海軍卿に就任した勝海舟は、薩長同盟は坂本龍馬が一人で成し遂げたことと述べた。さらに、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』によって、薩長同盟は坂本龍馬が成し遂げたとして喧伝された。いまや、坂本龍馬は神格化されたヒーローであり、「龍馬」の冠を戴いたプロジェクトは日本国中でもてはやされている。
 その坂本龍馬には師匠と呼べる人がいた。それが勝海舟だが、その海舟は、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ」と『氷川清話』で述べた。面白い事に、勝海舟が口にした西郷隆盛、横井小楠をも坂本龍馬は師匠にしている。
 勝海舟は幕末史、近代史を語るにあたって欠かせない存在だが、福岡藩関係者とのつながりが強い。しかし、勝海舟は福岡藩主の黒田長溥については述べるが、他については口にしていない。坂本龍馬が成し遂げたと伝わる「薩長同盟」についても、同盟に到る以前、犬猿の仲であった薩摩と長州とを和解させなければならない。その斡旋で奔走したのが福岡藩の筑前勤皇党のメンバーであり、家老の加藤司書だった。全国に周知されない史実だが、その片鱗として三條実美らが滞在した太宰府天満宮の延寿王院前に看板がある。太宰府天満宮を訪れる観光客は、まさか、ここが維新の策源地であったとはつゆ知らず、素通りしてしまうのが常である。
 もしかしたら、勝海舟は薩長同盟に到る薩長和解についての詳細を語ったかもしれない。しかし、「歴史は勝者によって作られる」の言葉通り、勝者である薩長政府が福岡藩の斡旋を口述筆記から消し去ったのもかもしれない。
 遠慮がちに立つ案内看板を見ながら、真実が知りたいと願う。
 
 
 
延寿王院案内看板

▲延寿王院案内看板