前山 光則
昨年の秋頃から、猫たちがよくわが家の玄関先や庭に来るようになった。
毎日姿を見せるのは母娘と思われる2匹の猫だ。大きな方は灰色がかったキジ猫で、小さな方は三毛である。いつも一緒にやって来るし、大きな方が時折り小さな猫の体を舐めてやる。小さな三毛はなにかと大きなキジ猫にすり寄ったりいたづらしたり、遠慮がない。
飼い猫なのか、野良猫なのかも判然としない。昨年、この連載コラム第310回「船着き場にて」で記したように、近くの船着き場は猫たちの溜まり場になっており、かねてから何人かの人が餌を与える。雌猫を動物病院へ連れて行って、避妊手術を受けさせる人もいる。そのように、野良猫にしては住民との交わりがあるためあまりガツガツしていない。でも、船溜まりや堤防の改修工事が始まって以来騒々しくて落ち着かないので、それでフラフラとわが家にも現れるのだろうか。
大きな方は、わが家の玄関前に朝早くに訪れることが多い。だから、名を「アサ」とつけてやった。それで、小さな三毛の方はその子であろうから「コアサ」とした。飯の残りに牛乳を混ぜたり、出しをとった後の煮干しに花カツオをまぶしたりして与えていたら、なんとなく懐いてきた。他にも、茶色の猫が時折り忍び足でやって来るが、いつもアサやコアサの後からしか現れぬので「アトコ」と呼んでいる。後から来てはずる賢いことばかりするから、これは間違いなく野良猫だろうか。白黒の猫や大柄のキジ猫も時たま姿を見るものの、近づいては来ない。
例の「船着き場にて」に登場したベテラン美容師のMさんが、年末にちょっと用があってわが家に立ち寄った時、たまたまアサが玄関の横の木箱の上に寝そべり、ひなたぼっこをしていた。Mさんはビックリして、
「あら、ハナちゃんここにいたの」
それでわたしの方は目を瞠(みは)って、
「エッ、野良猫でなくておたくの猫ですか。ハナちゃんっていう名前なんですね」
「そう、この3日ほど居なくなってたですよ」
「3日間も……」
「そういうことは、よくありますもん。気まぐれですから、ね、ハナちゃん」
だからわたしは、このキジ猫を勝手に「アサ」などと名を付け、それも呼びすてにしていることなど口が裂けても言えないゾ、と恥じたのだった。Mさんが帰った後、女房と顔を見合わせて、協議した。これはやはり大きな方は「ハナちゃん」と呼ぶしかないゾ。でも、小さな方はどう呼ぼうか。実は、Mさんには、三毛猫の方の名を聞くのを失念してしまっていたのである。「ま、仮にコハナちゃんだな」ということになった。
こうして猫たちが訪れるようになってから、わりと面白味を感じる。第一、犬よりもかわゆい。それに、マイペースなのが良い。腹が減ったらミャーミャーうるさく催促する。餌を与えると盛んに食べて、しかし満腹すれば決してそれ以上口にせず、どんなにおいしい餌であってもプイと無視して立ち去る。甘えたいときは、こっちの都合などおかまいなしにすり寄ってくる。そのくせ、人間のお手伝いをしようなどという健気な精神は持ち合わせていない。色々な面で人間の役に立つ場合が多い犬たちと比べて、大違いである。そのクールさが、かえって人間たちの気慰めというか、癒しとなる場合もありはしないだろうか。夏目漱石が「吾輩は猫である」を書いたのは、実際に猫を可愛がっていたからである。飼い猫が亡くなった時、遊び半分であろうが知人・友人たちに猫の死亡通知の挨拶状を送ったほどである。漱石の弟子・内田百閒になると更なる愛猫家で、自分の可愛がっていた猫がいなくなった時、あらゆる手を尽くして捜索したし、あげくには「ノラや」「ノラやノラや」「ノラに降る村しぐれ」「ノラ未だ帰らず」等、次々に小説を書いた。
この人たちのように猫と仲良くなっていくのかどうか。いや、まさかあんなふうにはなれないな、と否定的になりながら、遊びに来れば結構猫とつきあうことが多くなった。
それで、である。今年になってベテラン美容師Mさんが新年の挨拶かたがた訂正をしにいらっしゃった。Mさんによれば、
「ごめんなさい、あのキジ猫、今、来ておるですか」
「いえ、さっきまではおったですが」
と答えたところ、Mさんは済まなさそうに、
「あの猫、うちのハナちゃんにかなり似ているばってん、ハナちゃんではなかですね。体毛は同じですよ。キジですね。ばってん、ハナちゃんの方がもう少し体が大きいですよ」
「おや、ま……」
女房もわたしもまた目をパチクリ。これにより、2匹は再び「アサ」と「コアサ」に戻ったのであった。そんな次第で、アサとコアサは、やはりどこかの飼い猫なのか、あるいはあの船着き場に屯する野良猫たちの一味なのか、いまだに判然としないままである。