前山 光則
『昭和の貌《あの頃を撮る》』(弦書房)の麦島勝さんが、5月17日に亡くなられた。
今年の3月13日、人吉市在住の麦島ファンS氏が久しぶりに所用で八代へ出て来た。それで、それならば麦島さんに会いましょうよということになり、老人ホームに一緒に面会に行った。麦島さんは椅子に座って、テレビを観ているところであった。以前より少し痩せており、言葉数も少なかった。しかし、声には以前と変わらぬ張りがあったので、30分ほどはあれやこれや会話ができた。またまいりますよと言っておいとましたのだが、それからは会わずじまいであった。近いうちに会いに行こうと念じつつ、忙しさにかまけて果たせぬままだったのが悔やまれる。ほんとに、自分の呑気さが情けない。
熊本日日新聞社から追悼文を依頼されたので、「麦島勝さんの死を悼む」と題したものを寄稿した。次のとおりである。
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八代市の写真家・麦島勝氏が、5月17日に亡くなられた。享年90、大往生である。わたしは氏の写真集の編集や、写真整理、作品展準備のお手伝い、各地への小旅行等々、色々おつきあいをさせてもらった。たくさんのことを教わったなあ、と感謝するばかりだ。
麦島氏は、八代市に生まれて、少年の頃にはすでに写真に興味を持ったという。戦後に入ってから勤めのかたわら地道に写真活動を続けた。氏の遺してくれた写真は、撮られた当座は日常のスナップ写真としか見なされないものが多いかも知れない。だが、時間が経過してから見直すと、その頃ならではの貴重な風物や人間像が捉えられているのである。
氏の作品群の中から一つだけ挙げるとすれば、昭和23年3月5日に現在の八代市坂本町で撮影されたという「お昼時」と題した写真が好きだ。球磨川の土手で、母と子が使い古したアルマイト製の弁当箱を手にしている。御飯が詰まっているが、たいしたお菜は入っていないふうだ。貧しい昼餉であるものの、しかし互いに顔を見合わせてニコニコしている。戦後間もない頃の、貧しいけれど母と子が一緒に居ることの幸せ。これはポーズをとらせて撮れるものではなく、被写体の自然なやりとりの一瞬を捉えた「記録」である。
昭和33年4月5日に撮影されたという集団就職列車を写した組写真も、なかなかに印象的だ。当時「金の卵」と呼ばれ、集団で、主として東京・大阪・名古屋方面へ就職して行った中学卒業生たち。そんな彼らの緊張と不安に満ちた表情、胸に迫るものがある。
麦島氏は芸術的写真を撮る力量をちゃんと身につけており、そうした趣向の優れた作品も多い。しかし、それよりも写真の「記録」性にこだわった。氏は先の戦争から帰ってきて世の中の移り変わりの早さに驚き、これは記録しておかねばならぬと気づいたのだそうだ。以来、愛用の50㏄バイクであちこちを駆け巡った。そんな自分自身のことを、「昭和という時代、これはもう戻っては来んです。記録してきてよかったな、と思います」と語ってくれたことがある。
日常生活での麦島氏は、うたうのが好きであった。しかも朗々とした声だった。自分の近くで他人が恥ずかしげにうたっていると、「元気よくうたわにゃあ!」と励ますのが常であった。得意だったのは「北国の春」で、ある時、氏は老人たちのカラオケ会でこれをうたった。出場者8名中、最優秀の歌い手であったと評価したい。亡くなる前にも、夜中、寝床で何か口ずさむふうだった、そして数時間後には静かに逝ったという。口ずさんだ歌は「北国の春」だったろうか、いや、集団就職者たちの心情をうたった「あゝ上野駅」も氏の愛唱歌だったなあ……。優れた写真家がいなくなって寂しいし、悲しいが、このことについては心なごむものがある。氏は最期まで「麦島勝」らしさを失わなかったのだ。
麦島さん、安らかにお眠りください。
(2018年5月30日付け朝刊、掲載)
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心を込めてこの追悼文を書いたが、今になって思うと、麦島勝さんが写真家としてたいへん厳しい原則を持っていたことについて触れていない。これはいかん、と反省する。
3年前の4月5日、人吉市の人吉クラフトパーク石野公園で熊日フォトサークルの例会が行われた際に、麦島さんのお伴で出かけた。麦島さんは脚が不自由になっていたので、わたしは運転手役だった。麦島さんは久しぶりの外出だったし、参加者の多くが「お元気ですね」「ご無沙汰してました」「今日、よろしく!」などと声をかけてくれるし、モデル嬢たちは皆かわゆいし、御機嫌だった。ところが、撮影会が始まってしばらくすると、公園の真ん中でアトラクションとして人吉の民俗伝統芸能「臼太鼓踊り」実演が行われた。麦島さんはにこやかな顔つきで見ていたが、しばらくしてにわかに表情が険しくなった。撮影会の参加者たちがステージの前に集まり、一所懸命にカメラを壇上へ向けている。中に、数人、ステージへ身を乗り出して出演者に迫っていた。
「そこから下がりなさい、上演の邪魔してはいかんじゃないか!」
麦島さんが、声を張り上げた。絶対許さんゾというような、見ているこちらが震え上がってしまうくらいに厳しい表情だった。
「駄目じゃないか、すぐに下がりなさい!」
麦島さんはもう一度叱りつけた。ステージに張り付き、這い上がろうとしていた数人は、恐縮の体で引き下がった。麦島さんは写真で記録することに一生かけてこだわったが、しかしそれは、被写体に迷惑をかけぬことが大前提としてあったのだ。熊本日日新聞の追悼文では、そこのところに言及せずじまいであった。枚数の関係で無理だったなどと言っていられる問題ではない。書いておくべきだったのである。
通夜は5月18日、葬儀は翌19日、八代市内の斎場で執り行われ、両方とも参列した。葬儀の際には弔辞も述べさせてもらった。式の終わりに、若い女性が前へ出て、バイオリンで「あゝ上野駅」を演奏した。集団就職者たちの心情をうたった、あの歌。いや、これには参った。麦島さんは千昌夫の「北国の春」や井沢八郎の「あゝ上野駅」が好きで、よくうたっていた。愛唱歌である。聴いているうち目頭が熱くなり、熱いものが流れだし、止められなくなった。
でも麦島さん、あなたがいなくなって寂しいけど、あなたの写真作品がたくさん遺っています。その中に、いつもいてくれますよね。