第365回 懐かしのピトロクリ

前山 光則

 新型コロナウイルスが依然として流行り、この頃は遠出もままならず家に籠りがちだ。だが、代わりに読書は進む。最近読んだ本では牧村健一郎著『漱石と鉄道』が面白かった。
 この本によれば、夏目漱石は、明治・大正のあの時代、全国的に鉄道が整備されて行く中でしばしば旅をしている。最もよく利用したのは東海道線で、54回ほど乗車したそうだ。普通の汽車以外にも、馬車鉄道とか人力鉄道、市電、軽便鉄道までもが登場する。それが、自ずから作品にも反映されているわけだ。漱石の旅した範囲は、北は東北、南は第五高等学校の教師をしていた頃に熊本に住んだから、九州。外国では、ロンドン留学中にスコットランドの山中の小さな町ピトロクリにも旅をし、晩年には満州や韓国も巡っている。そうした各地へ、著者は実地に、なるべく鉄道を利用して出かけて行き、漱石の足跡を検証している。そして漱石の鉄道利用が作品の中にどう反映されたかを、この本でつぶさにレクチャーしてくれている。
 加えて、著者は、漱石は鉄道を大いに利用した一方で、鉄道に代表されるような日本の近代化に危機感を抱いていた、「草枕」「三四郎」「行人」等にはそれが濃厚に反映されている、と説く。漱石自身の健康も、とりわけ胃潰瘍は鉄道によって悪化した形跡があり、「漱石は字句どおり、身をもって明治近代化の代価を払った」、著者はそう述べる。夏目漱石は、日本の近代化が持つ正の部分と負の側面の両方を生きたのである。 
 個人的には、この本の中で著者がスコットランドのピトロクリまで足を運んだ場面は実に感慨深いものがあった。
「エジンバラからローカル鉄道に乗車。牛や羊がのんびり草をはむ緩やかな草原を車窓から眺めながめて二時間、ピトロクリ駅に着いた。閑散とした田舎の駅で、数人が下車すると人気がなくなった。保養地なのだから周辺の案内図くらいあるかと期待したが、なにもなし。思案の末、しばらく小道を進んでみると、ようやく教会や商店のある通りに出た。ここがメインストリートらしい。車も走っている。」
 このくだりを、うん、そう、エジンバラから2時間、今も変わらないのだなあと頷く一方、ピトロクリ駅で「数人が下車すると人気がなくなった」とあるのには、そんなはずないゾ、と首をかしげたりしながら読んだ。いや、実に懐かしいピトロクリ。
 ちなみに、「ピトロクリ」は漱石が「永日小品」の中でそう書いているのだが、人によって違う。綴りは「PITLOCHRY」だ。それが、著者は現地で「ペットロッホリー」と聴こえたそうだ。わたしは「ペトロチリー」と日記に記している。両方とも、スコットランド人の訛り方を耳にしていることになる。イングランド育ちの友人ロレンスは、「ピトゥロッホリー」と言っていた。 
 この連載コラム第98回で触れたことがあるが、イギリスに平成5年(1993)8月15日から28日まで女房・娘と共に旅した。生まれて初めての外国旅行であった。英語に強い女房を介して親しくなった若い友人ロレンスとケイが、イギリスに帰ってあちらで結婚式を挙げるので、来ないか、と誘ってくれた。だから、思い切って家族で出かけた次第であった。それも、せっかくイギリスまで旅するからには、と、北の方のスコットランドにも行ってみたのだった。
 イギリスに着いた翌日からさっそく出かけた。8月16日、ロンドンのキングスクロス駅――ここは東京の上野駅みたいな野暮ったい雰囲気であるが――から特急列車に揺られて4時間半、まずスコットランドはエジンバラに着いた。この町で2泊。スティーブンソンの小説「ジキル博士とハイド氏」のモデルが住んでいたという裏町を歩いたり、伝統衣裳の軍楽隊が熱演する夏祭ミリタリタトゥーを見物したりした後、18日、列車に揺られて約2時間、ハイランド地方パース州の山中、ピトロクリ駅に着いたのであった。ここは、ネッシーで知られるネス湖よりも、もう少し手前に位置する。「田舎の駅」とはいえ、ホームは二つあるし、駅員も数人いた。『漱石と鉄道』には「しばらく小道を進んでみると、ようやく教会や商店のある通りに出た」とあるが、わたしたちが訪れた時には駅を出てすぐから店が並んでおり、なかなかの観光地であった。土産品店に「サムライ・パワー」などという名のキャンディが売られていたのには、苦笑してしまった。
 予約していたアソール・ビラという宿に着いて、まずトイレに入ってみたら便器に茶色い水が溜まっていてビックリ。しかし、スコットランドは水がピートの泥炭層を通って湧いてくるので、どんなにきれいな水でもこうした色なのだそうだ。宿の前の溝も茶色い水が流れており、鱒の稚魚が群れていた。 
 その日、女房は体の具合が優れず、部屋で休養させることにした。午後3時頃から娘(まだ中学1年生だったが)とわたしの2人でタクシーに乗り、ウイスキー蒸留場エドラダワー(EDRADOUR)を見学に出かけた。まるで犯人護送車のような趣きのタクシーで、これはロンドンでも似たようなものだったから、あちらでは一般的なのであろう。蒸留場は宿から約3キロのところにあったが、草原のまっただ中に立地していた。スコットランド中に100を超える数のモルトウイスキー蒸留場が存在する中で、ここは最も小さいところとされる。あえて一番零細なところを見学したかったから、友人ロレンスに事前に調べておいてもらっていたのであった。
 零細とはいえ、エドラダワーは170年の歴史を持つそうだ。グレーの屋根、白塗りの外壁。入り口のドアは真っ赤で、メルヘン風の趣きがあった。従業員は、目にしただけでも10人ほどはいた。観光客が何人も見学に来ており、見学者向けの売店もあった。蒸留場内に猫が飼われていて、猫好きの娘は喜んだのだったが、これは野鼠が醸造場内を荒らしたりせぬよう用心棒である。酒造りするところでは、猫は結構必要とされているものなのだ。家鴨(あひる)も何羽か飼われており、彼らは大麦の蒸留粕を食べさせてもらっていた。そしてここは裏に小高い山があり、麓から水がコンコンと湧く。それをウイスキー造りに用いているが、やはり茶色であった。
 無論、そこのモルトウイスキーは実に良かった。コクがあって、長く口に含んで愉しみたいような味わいだ。
 夕方、宿の近くを一人で散歩してみた。午後7時半を過ぎてもまだ昼間の明るさだった。広々とした草原を歩き、斜面を下って川の方へ行くと、吊橋があった。川では大小の鱒がたくさん泳いでいた。堤防などない、自然な流れだ。対岸に、大きめの野兎が2匹遊んでいるのが見えた。栗鼠(りす)もいた。上流にダムがあると聞いていたので行ってみたかったが、道が分からず諦めた。ホテルに帰り着いた時は9時近かったが、まだまだ外は明るかった。10時になっても、ややうす暗い程度。まるで白夜だな、と思った。
 翌朝、6時過ぎに起きてみると、外は霧がたちこめ、8月中旬だというのに地面に霜が下りていた。スコットランドは寒い!
 そのようにして遊んだ後、ロンドンに戻った。ロンドンでは、ナショナルギャラリーを見学しに入ったらわが八代の顔見知りの人たちにバッタリ出くわしたり、大英博物館では版画家・浜田知明氏の作品展が大英博物館で開かれていたのでじっくり鑑賞した。そしてメインイベント、ドーバー海峡にほど近いオットフォードという田舎町でケイとロレンスの結婚式――といったふうに、13日間もの長旅をめいっぱい愉しんだ末に我が家に帰ってきた。初めての外国旅行は大満足であった。
 ところが、旅をふり返るべくパンフレットやイギリス関係の本を引っ張り出して見ていたら、何ということだ。わたしたちがスコットランドから戻って3泊したロンドンのB&Bはガワーストリート57番にあったが、すぐ近く76番には夏目漱石がロンドン留学の最初に2週間泊まった宿があるのだそうだ。今もなお昔のままの佇まいのB&B、というではないか。加えて、スコットランドのピトロクリには、漱石はロンドン留学(1900年10月~1902年12月)の終わり頃、つまり明治35年秋に訪れている、ということが分かった。「永日小品」の中で、「昔」と題して思い出が綴られている。
「ピトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起きたりしてゐる。十月の日は静かな谷の空気を空の半途で包(くる)んで、ぢかには地にも落ちて来ぬ」
 これは、その書き出しである。明治42年(1909)発表だから、ピトロクリを訪れてからは7年近く経っていることになる。
 まったく、事前に知っていたら、ガワー街でかならず76番を訪ねてみるし、ピトロクリでも漱石の滞在した場所へぜひ行ってみたかった。ボンヤリとしていたからこのザマだ、と、自らの迂闊さを恥じたのであった。
 今度読んだ『漱石と鉄道』、著者の牧村氏は漱石のピトロクリでの滞在先にちゃんと訪ねて行っている。インフォメーション・センターで中年の女性に聞いてみたところ、女性は即座に「オー、ソーセキ」と反応してくれて、そこは現在ダンダラックという名のホテルになっている、と教えてくれたそうだ。漱石の旅を追体験すべく訪問する日本人が、たまにはいるらしいのである。著者は、そのダンダラック・ホテルへ行ってみる。
「林の道を歩いて十数分、レンガ造りの洒落た建物がホテルだった。さっそく入り、受付の女性に先ほどの口上を述べると、やはり『オー、ソーセキ』。ここでは漱石先生、有名人である。ロビーには地元周辺の観光パンフレットと並んで、例の喪章をつけた漱石の肖像写真が掲示され、簡単な英文の紹介文が添えられていた。日本語と英語翻訳の著作も数冊、置いてある。岩波文庫の『道草』が上下さかさまだったので、直しておいた」
 そして、著者はホテルの支配人に話を聞くのだが、それによると建物は19世紀半ばに作られ、館主が日本好きであった。だから、日本庭園もあった由である。漱石は2階の角部屋に泊まったのだという。著者は、建物周辺の風景も記してくれている。
「庭の向こうになだらかな丘陵が広がり、穏やかな日差しが薄い雲を通して、あたりを淡い光で包む。岡の谷間あたりに古戦場があるのだろうか。この光景は漱石が一〇〇年前に見たのと変わらないだろうと、満足感を憶えた。ふと気づくと、近くに黒猫が忍び寄ってきた。漱石の猫を思い出し、口元が緩んだ」
 そうそう、古戦場。ピトロクリの町からそう遠くない谷川の上流には、古戦場キリクランキー渓谷があるのだそうだ。1689年、高地人(ハイランダース)と低地人(ローランダース)がその峡谷で、血で血を洗う激しい戦いを繰り広げたらしい。そのことは漱石も「永日小品」の中で触れている。
 著者は、漱石が眺めたであろう風景を自分でも追体験し、キリクランキーの戦いにまで想いを馳せている――漱石ゆかりの地を踏んだ著者の、満足感。それがありありと伝わってきて、羨ましい限りだ。
 平成5年のうかうかとした自分が改めて思い起こされて、どうしようもなかった。
 
 
 

▲川鵜(かわう) 球磨川で、川鵜を見かけた。今、川には若鮎が多い。彼らはそれを狙うはずで、漁師泣かせの鳥であるT25