第366回 漱石のピトロクリ

前山 光則

 前回、牧村健一郎著『漱石と鉄道』にスコットランドのピトロクリのことが出てきた。
 実に、夏目漱石は明治33年(1900)10月から明治35年(1902)12月までイギリス留学をするが、その終わり頃にピトロクリを旅しているのである。では、ピトロクリは漱石にどのような印象をもたらしたか。前回少しだけ触れたように、漱石は「永日小品」の中で「昔」と題して旅の思い出の一端を綴っている。
「ピトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起きたりしてゐる。十月の日は静かな谷の空気を空の半途で包(くる)んで、ぢかには地にも落ちて来ぬ。と云つて、山向(やまむかふ)へ逃げても行かぬ。風のない村の上に、いつでも落附いて、凝(じつ)と動かずに霞んでゐる。其の間に野と林の色が次第に変つて来る。酸いものがいつの間にか甘くなる様に、谷全体に時代が附く。ピトロクリの谷は、此の時百年の昔(むか)し、二百年の昔にかへつて、安々と寂びて仕舞ふ。人は世に熟れた顔を揃へて、山の背を渡る雲を見る。其の雲は或時は白くなり、或時は灰色になる。折々は薄い底から山の地を透かせて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする」
 これが書き出しである。発表されたのは明治42年(1909)なので、ピトロクリを訪れてから7年近くも経っていることになる。漱石にとって、あのあたりの秋の風情はいつまでも印象の薄れないものであったのではなかったろうか。8月中旬ですら朝霜の見られるという、たいへん寒冷な土地である。これがまた10月ともなれば、朝晩の寒さはさらに一層格別のものがあったろう。だが、それだけに秋色の訪れはきっぱりとしており、深く、鮮やかで、漱石を魅了したはず。秋の日差しの下、「谷全体に時代が附く。ピトロクリの谷は、此の時百年の昔(むか)し、二百年の昔にかへつて、安々と寂びて仕舞ふ」、山の背を渡る雲は「或時は白くなり、或時は灰色になる。折々は薄い底から山の地を透かせて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする」との筆致には、ピトロクリのことを思い浮かべればすぐさまあの地の秋の風情が蘇ってくるという、漱石の確信のようなものが示されているふうだ。
 漱石が滞在した家は小さな丘の上にあり、雲の動きや谷間の景色を眺めるに都合好かったようだ。出口保夫・アンドリューワット編著『漱石のロンドン風景〈新装版〉』によれば、そこはピトロクリの親日家ジョン・ヘンリー・ディクソンの邸宅であった。ここが、建物はそのまま遺っており、今はダンダラック・ホテルになっているのだそうだ。3階建てで、漱石は正面から入って2階右端の部屋に泊めてもらった由である。ともあれ、この親日家に招かれて1週間か10日ほど滞在したらしいが、詳しいことは分かっていない。
 さて、折しも、家の壁に日が当たる。壁には薔薇が這っており、花をいくつかつけている。花は「大きな弁は卵色に豊かな波を打つて、萼(がく)から翻へる様に口を開けた儘、ひそりと所々に静まり返つてゐる」といった風情であり、その匂いは「薄い日光に吸はれて、二間の空気の裡に消えて行く」のである。漱石が上を見ると、「薔薇は高く這ひ上つて行く。鼠色の壁は薔薇の蔓の届かぬ限りを尽くして真つ直ぐに聳えてゐる」とあるから、薔薇はよほどによく壁を這い、茂っていたのであったか。漱石の観察は、まだまだ「屋根が尽きた所にはまだ塔がある。日は其の又上の靄の奥から落ちて来る」などと、観察が細かい。よほどに印象に残っているのであろう。
 そして、足元は「丘がピトロクリの谷へ落ち込んで、目の届く遙(はるか)の下が、平たく色で埋まつてゐる」とあるから、これは丘の上からの眺望がよほどに良いのではなかろうか。漱石は仔細に眺めわたす。すると、谷の向こう側、山へと登るあたりは樺の木の黄葉が段々に重なり合って、「濃淡の坂が幾階となく出来てゐる。明かで寂びた調子が谷一面に反射して来る真中を、黒い筋が横に蜿(うね)つて動いてゐる」といった風情だ。これは谷に水が流れているのであるが、それは透明な流れではない。「泥炭を含んだ渓水は、染粉を溶いた様に古びた色になる」と漱石はスコットランドの水の特徴を言い表している。単に茶色いのでなく、「染粉を溶いた様に古びた色」、さすが文豪の表現は気が利いている。「此の山奥に来て始めて、こんな流を見た」と漱石は言う。実に、日本では見るはずもなかった、さらにイギリスに来ても、漱石は約2年間ロンドンに滞在したが、あのあたりでも見られない水の色だったのだ。
 さて、漱石が丘からの眺めを愉しんでいるところへ邸宅の主人ジョン・ヘンリー・ディクソンが寄って来る。彼は髯を生やしており、「十月の日に照らされて七分がた白くなりかけ」ている。風格があったろうが、しかし「形装(なり)も尋常ではない」と漱石は遠慮なく記している。
「腰にキルトといふものを着けてゐる。俥の膝掛の様に粗い縞の織物である。それを行燈袴(あんどんばかま)に、膝頭迄裁(た)つて、竪に襞(ひだ)を置いたから、膝脛(ふくらはぎ)は太い毛糸の靴足袋で隠すばかりである。歩くたびにキルトの襞が揺れて、膝と股の間がちらちら出る。肉の色に恥を置かぬ昔の袴である」
 漱石にとって、正直これは異和感の対象であった。ディクソン氏はスコットランドの伝統的な衣裳、キルトを履いているのである。これは格子縞のあるスカートで、「行燈袴」はつまり襠(まち)のないスカートというか、袴(はかま)。形が丸行燈に似ているわけだ。日本人が初めて目にした場合、戸惑ってしまう。スカートは女性が着用するもの、としか考えていないから、男がこれを履いて「膝と股の間がちらちら出る」のを目にすると戸惑ってしまう。いやいや、そうでなく日本でもかつて武士は袴をしていたが、あれもまたスカートのようなものだ。そう思えば、異和感は少々薄れよう。だから漱石も「肉の色に恥を置かぬ昔の袴である」との理解を示してやっており、不愉快ではなかったふうだ。
 加えて、ディクソン氏は「毛皮で作った、小さい木魚程の蟇口」を前にぶら下げていた。それはどういうものであるかと言えば、
「夜暖炉の傍へ椅子を寄せて、音のする赤い石炭を眺めながら、此の木魚の中から、パイプを出す、煙草を出す。さうしてぷかりぷかりと夜長を吹かす。木魚の名をスポーランと云ふ」
 漱石はそう記している。このスポーランとは、キルトを履く際にベルトで腰を締めるのだが、そのベルトの正面にぶら下げておく毛皮製の袋のことである。ディクソン氏の場合は、煙草やパイプをそのスポーランに入れている。これには他に生活必需品を色いろしまい込めるから、便利な袋である。
 キルトにしろスポーランにしろ、漱石にはたいへん珍しく目に映る代物であったろう。
 2人は、一緒に崖を下りて散策する。小暗い道ではスコッチ・ファーという常緑樹が生えている。その幹を、栗鼠(りす)が長い尾を振って駆け上る。地面の苔の上を駆け抜ける栗鼠もいた。ディクソン氏は渓流の方を指さし、「あの河を一里半北へ遡るとキリクランキーの狭間がある」と説明をしてくれる。それはすなわちキリクランキーの戦いのことであり、前回も触れておいたように、1689年にケルト系の高地人(ハイランダース)とアングロ・サクソン系の低地人(ローランダース)がその峡谷で、血で血を洗う激しい戦いを繰り広げた。そのときは「屍が岩の間に挟つて、岩を打つ水を塞(せ)いた。高地人と低地人の血を飲んだ河の流れは色を変へて三日の間ピトロクリの谷を通つた」という説明に、漱石は、「自分は明日早朝キリクランキーの古戦場を訪はう」と決心するのである。だから、次の日きっと行ってみたことであろう。古戦場跡がどのような景観であったか、読みたいものの、残念ながらそこまでは書かれていない。
 全体に土地の景観や風物や人物への親和感が溢れており、ピトロクリでの夏目漱石の落ち着きようが偲ばれる。漱石は、ロンドンでの生活には東洋と西洋との生活感覚の違いに苦しんで神経衰弱気味になった。必要な時以外はあまり外出もせず、「漱石発狂説」がまことしやかに流れたほどであったという。だが、ピトロクリへの旅の様子を今辿ってみる限りでは、そのような気配は微塵も窺うことができない。邸宅の主人・ディクソン氏の姿かたちに異和感を抱いても、それは不愉快さの表現なんかではない。むしろ、近代化にまみれる以前の土俗の素朴な姿には好感が持てたふうだ。丘の上の親日家邸に滞在して、漱石は大いに気持ちが和んだのではなかったろうか。そのような気配が伝わってくる。
 前回話題にしたわたしの初めての外国旅行は平成5年(1993)8月のことだったが、実は6年後の平成11年(1999)にもイギリスに旅したことがある。その時は7月31日から8月13日までの約2週間で、当時ウエールズにいた友人ロレンスとケイ夫妻やら湖水地方つまりカンブリアにいた友人たちの家やらに泊まらせてもらいながら、旅をした。スケジュールの関係で、ロンドンには滞在しなかった。その代わりにスコットランドへ足を伸ばし、スペイ川の河口から中流域つまり平野部のグレントーチャーズ、グレンエルギン、スペイバーン、マッカラン、グレンファークラスといっためぼしい蒸留場やクーパー(中古酒樽修理工場)やらをあっちこっち見学してまわった。パブ(酒場)で、スコッチやリアル・エール(現地のビール)を味わったりもした。あのスペイ川流域が、スコッチウイスキーの中枢部である。
 ウイスキー蒸留場をあれこれ見て歩く途中、クレゲラヒという町では母娘が仲良く泳いでいた。彼らが岩の上から渕に飛び込むと、飛沫が上がり、そのたびに夢まぼろしのように小さな虹が現れた、何度も、何度も、である。スペイ川で見たあの光景は、今ふりかえってみても胸がときめく。
 しかし、そんなふうに巡っているうちに、残念、山間部のピトロクリを再訪するには時間の余裕がなくなってしまったのだった。
 懐かしの、漱石ゆかりの地、ピトロクリ。生きているうちにまた旅することができるだろうか?
 
  
 

▲マッカランの12年もの まだ飲まずにそのままである。ずいぶんと熟成していることだろう