前山光則 2020.8.4
球磨川水系を中心に豪雨災害が生じて、早や一ヶ月経つ。線状降水帯が日本列島に居座り、凄まじい量の雨が降ったために大水害が起きた。その後、列島の他の地域でも同様のことが続いており、困ったことだ。
あの後、わたしのふるさと熊本県人吉市のことが気になって、数回行ってみた。知り合いのところを回りながら、所によっては後片付けのお手伝いを少々させてもらったものの、もはや若くないし、役に立てたような実感はまったくない。慰め、励ますのが精一杯だった。だが、目を逸らしてはいかんと思う。家に居る時は、テレビや新聞にしょっちゅう目を向けて色んな情報を吸収している。ふるさとの現状をしっかと目に止めておきたい。
そんなある日、テレビを点けたら、人吉市より少し下流にあたる球磨村の住民で五十歳代かと思われる男性が、インタビューに答えていた。男性は、瓦礫を片づけながら、
「こぎゃんふうに川が暴れて、家も壊されてしまいました。ばってんかですな、球磨川への愛着はなくならんとですよ」
そう語っていた。ああ、と、思わずうめきたくなった。「愛着はなくならんとですよ」、この一言が、ずんと心にしみ入った。
水害が発生したのは7月4日であるが、実はその日の朝の内に西日本新聞社から川についてのエッセイ執筆を依頼された。それで、すぐさま書いた。7月22日の朝刊に掲載されたのだったが、その中で球磨川に対するわたしの個人的な思いを綴った箇所がある。
幼少年期の記憶を辿るとき真っ先にわたしの頭に浮かぶのは、茶の間から間近かに川が見える、という風景である。そこは、熊本県人吉市紺屋町。家の裏を流れていたのは 山田川という川で、500メートルほど下れば日本三大急流の一つ球磨川に合流している。
そのように川っぷちで生まれ育ったので、物心つかぬうちから水に親しんだ。「こうら(河原)」はわりと平らで広くて野球ができたし、鬼ごっこや隠れんぼにも興じた。夏になれば、山田川は水深が浅くて流れが穏やかで、泳ぎや魚捕りの恰好の練習場だった。馴れてきたら、年長の人たちが球磨川へ連れて行ってくれた。川幅が2百メートル ほどもある急流を泳いで渡れないようだと「おまえは、まあだハンコだ」、まだ半人前に過ぎん、と突きはなされる。泣きそうになりながら、かなり流されつつも頑張って対岸に辿り着く。すると、その時から一人前として認められ、泳ぎだけでなく鰻や鮎などの魚捕りをする際にも仲間に入れてもらえるのであった。
年老いた今も、川を眺め渡すと心が弾む。大袈裟かも知れぬが、「川」は「ワンダーランド」みたいなものだったわけだ。小学校5年生の時に、同じ人吉市内の二日町とい う町内に引っ越さねばならなかった。そこは川から少し隔たった場所にあったので、ひどく寂しく、とても悲しかった。
現在、球磨川河口近くの三角洲内に住んでいる。熊本県八代市古城(ふるしろ)町である。八代に来たのは昭和54年のことで、初めは数年で人吉へ戻るつもりであった。だが、種々の事情が重なって、ここに居続けている。早い内に人吉へ戻ればよかったのに、とも思うが、実のところさほど悔やんでいない。子どもの頃に川べりで育った自分は、故郷を離れていても住まいの近くに水が流れてさえいれば、どうも、無意識のうちに心が和んでいる。
幼い頃に家の裏手を流れていた山田川や、ある程度成長してから馴染んだ球磨川に対する思いは、わたしの場合、こういうことになるのである。幼少年期の記憶を蘇らせようとすると、真っ先に「茶の間から間近かに川が見える、という風景」が浮かび上がってくる。わたしにとって、これは「原風景」と呼んでちっとも大袈裟でないと思う。いわば、我が家の庭みたいなものだった山田川。家のすぐ裏にあった山田川には、それほどにどっぷりと深く馴染んでいた。だから、そこを離れて昭和33年7月17日に同じ人吉市の二日町(にのまち)に一家が引っ越したのは、ほんとに「ひどく寂しく、とても悲しかった」のである。かねては物覚えのひどく悪い人間であるのに、引っ越した日付けを今でもはっきり記憶しているのは、そのためである。
といっても、その二日町の移転先からは山田川まで歩いて約10分、本流の球磨川へはものの五分もあれば行くことが出来た。だから、川が直接見えない位置に済むことになってからも相変わらずしょっちゅう水泳や釣りやボート遊び等をするために川へは出かけた。川と子どもとの関係はそのようにまことに密であった。
こんな具合だから、テレビで球磨村の中年男性が口にした「ばってんかですな、球磨川への愛着はなくならんとです」との思いにはまったく同感。いくら球磨川が猛々しく荒れ狂って被害をもたらしたとはいっても、これを憎むのは筋違いであろう。
正直な気持ちを言ってみるが、もう40年余もこの球磨川河口の三角州内に住んでいる人間としては、洪水によって我が家が浸水被害に遭う事態になったとしても川には不平不満は言うまい、というふうに考えている。ここ三角洲は、「麦島」と呼ばれている。愛知県の濃尾平野や大分県大野川河口あたりの「輪中」、あれを思い起こす。そう、この麦島は、輪中みたいなものである。ここは、元来は大半部分が川の流れる範囲内にあったはずなのだ。そこをぐるりと堤防で囲って人間が田畑を作ったり家を構えて住んだりしているのであり、もともと実は川に対して御無礼な話なのであった。われわれ人間たちは、増え続けてきて住む場所に困ったために、こうして居座らせてもらっている、ということになる。いわば、人間の勝手な都合でもって川の領分を侵してしまっている。それだから、時たま川の都合で水が溢れて水没することがあっても、人間の側から文句を言う筋合いはないのである。
このたびの大水害では、ここ麦島は、堅固な堤防で囲まれているため安全であった。もう一つ言えば、球磨川は、球磨谷から抜け出て八代平野に出た後、本流・前川・南川、この3つに分かれてから海に入る。だから今回のように大増水しても、流れが分散されるために危険水位には達しない。麦島という三角洲は、そのような環境にある。言うなれば「砦(とりで)」みたいなものであり、住民は安心して起居することができたのだった。
いや、実は、7月4日の大水害の日、一つだけ不安定要素が生じていた。本流と前川が分かれる地点のちょっと下、前川の方の堤防が、一カ所だけ激しく雨に叩かれ、濁流に迫られた末、綻びを見せた。関係者たちがすぐに土嚢などをあてがって大事にならずに済んだが、もしそこが破れていたら三角洲内にも濁流は入り込んだはず。後でそれを聞いて、ヒヤリとした。
ともあれ、川が暴れて氾濫しても、川に不平不満を申し立てる筋合いではないと思う。そうしたことよりも、かねてから川が怒らないよう努めることが大事だ、と思う。
しかし、実際はどうか。
思いつくまま言えば、球磨川流域に不安材料が蔓延している。それは、まず、森林の荒廃である。見た目には、昭和の頃と比べて禿げ山が減って、山々がよく茂っているように見える。まったく、あの頃の山々はあちこち切り払われてみすぼらしい山相があちこちで見られた。材木の値段が高く、じゃんじゃん伐採され、売られていたのである。現在は、材木は金にならないので、伐られることなく鬱蒼と茂っている。間伐がなされないまま放置された山林が多いのが、問題となっているほどである。だから、見た目に山々は緑の濃い状態であるが、実は中に入ってみると下草がまったくなくなっているところがたいへん多い。例えば、球磨郡あさぎり町と宮崎県えびの市との間に横たわる白髪岳(しらがだけ)、あそこの山頂一帯はまるで禿げ山状態だ。50年前だったら雑木が鬱蒼としげっていて、山頂に立ってもまわりが全然眺望できなかったほどであった。足元も下草が茂っていて歩きにくかった。それが、今は、立木は枯れてしまい、下草もまったくない。
なぜこうなってしまっているのか。野生の鹿たちが増えて、あたりの下草を食べるし、下草がなくなったら木々の樹皮を囓るために、荒れてしまったのである。障害物がないから四方八方見回せて快適だ、などと喜ぶ登山者がいるならば、哀しいことである。
球磨川の最上流部、すなわち水源涵養林としての役目を担う一帯でも同様の光景が見られる。球磨郡水上村の最奥、宮崎県椎葉村との県境に水上越しと呼ばれる標高1450メートルの山がある。その下、約1000メートルの沢から大量の清水がドドドドと湧いて出るのが球磨川の水源である。3、40年前、そのあたりは夏場に足を踏み入れるのはなるべく避けたかった。なぜならば、雑木林が深くて、道なき道。しかも、足場が悪かった。雑木の間を下草が覆っており、たいへん歩きづらかったのである。ところが、近年はまったく違っており、夏場でも雑木林の中は草が生えておらず、見通しが良くて大変歩きやすくなっている。下草がないのは、白髪岳同様、鹿たちがきれいに食べてしまっているからである。彼らはやがて雑木の幹にとりついて、樹皮を毟ってしまう。その範囲も徐々に広がっている、というのが現状である。
こうしたことが、球磨川流域のあちこちの山林内で起きている。たいへん憂慮すべき事態ではなかろうか。
山間部を歩く時、もう一つ憂鬱な気分にさせられてしまうものがある。それは、谷川がコンクリートで固められてしまっている風景である。コンクリート三面張りと呼んでいいかと思うが、両岸も川底もコンクリートで固めてしまってある。しかも、谷を流れる際に多少の流路の折れ曲がりがあったはずなのに、真っ直ぐに仕立て直してある。水は山に浸み込む余地がなくなってしまう。無論、魚が育つこともできない。こうなると、川でなく、単なる排水溝である。もともとこのような「排水溝」は町場で一般化していたのだが、最近では山間部でもよく見かけてしまう。ほんとにゾーッとさせられる光景である。
下草が鹿たちに食い荒らされてしまっていたり、谷川が単なる排水溝と化したりしたために、山々の保水力はずいぶんと弱まっているはず。日頃、あまりこうした光景は人の目に触れないから、話題にされない傾向がありはしないだろうか。しかし、放っておけない問題だと思う。
保水力をなくしてしまった山々から雨がたくさん降ったら、土砂が流れ出す。それを食い止めるために、砂防ダムというごく小規模の堰があちこちに造ってあるが、これがまた厄介な建造物である。砂防ダム内にはたちまち土砂が流入して埋まってしまう。すると、川床はその分上昇してしまうわけであり、砂防ダムが設置される以前よりも周辺への浸水被害は増えてくることとなる。
ダムといえば、球磨川にはすでに荒瀬ダムは撤去されているから問題はなかった。だが、それより7、8キロほど上流の球磨郡球磨村神瀬(こうのせ)にはまだ瀬戸石ダムがある。昭和33年(1958)に完成したダムで、堰堤の高さは26・5メートル、長さ139・35メートル。さほど大きくない発電用のダムである。これが、今度、洪水を抑制する役割どころか逆の働きをしてしまった。貯水能力が限界に達したため全部放流していたのだが、増えてきた川の水がダム堰堤を越えてしまった。溢れ出た濁流が堰堤や水門によって遮られるかたちになってしまい、沿岸への浸水被害を倍加させてしまったのだった。もともと発電用のダムであるから、治水に関して過大な期待を抱く方が無理な話であるのかも知れない。しかし、それにしても、水害抑止どころか浸水被害をむしろ増大させてしまったのであるから、瀬戸石ダムのこのような姿は情けなかった。
地球温暖化現象が確実に進みつつある昨今、他にも河川環境をとりまく諸問題が存在するのではなかろうか。考えていかねばならぬな、と、この頃、切に思う。