前山光則
この頃、春らしくなってきた。早咲きの河津桜などはすでに満開状態、良い季節である。ただ、連日テレビ等で報道されているようにロシアがウクライナに攻め込んでいる。これからどうなるのだろうか。コロナ禍も心配だが、戦争はそれよりはるかに大変な事態だ。
わたしのこの「本のある生活」、とうとう400回目である。第1回のコラム「屋根裏部屋からこんにちは」が載ったのが、2010年(平成22)2月16日。あれから12年、干支が一巡する年月なのであり、そんなにも長くダラダラと書かせてもらってきたわけか、と、恐縮するばかりだ。その間、連載の中からセレクトして『ていねいに生きて行くんだ《本のある生活》』との題で本にしてもらった。ありがたいことであった。
連載を始めた頃は、タイトルにあるようにわが家の屋根裏部屋を「男の隠れ家」と称して使っており、原稿書いたり本読んだりする時に梯子(はしご)をつかって潜り込んでいた。いつも女房から「今二墜落スルヨ、知ランカラネ」と小言を言われながら、それでも晩酌した後などイソイソと屋根裏へ上がって行ったものであった。今では墜落が怖いから、そのようなことはしない。意見してくれていた女房も、亡くなって早や4年近く経つ。
年月が経ったといえば、わたしの卒業した高校から、最近、寄稿依頼が舞い込んで来た。わが母校は、来年が創立100周年なのだそうだ。記念誌を刊行するので、後輩たちへ向けて何かためになるようなこととか思い出話とかを書け、という仰せである。わたしなどは、56年前の卒業生。だが、さて、どうしたものであろう。困ったもんだ。何か書けと言われても、ボンクラで、グータラだっただけで、偉そうなこと言える高校生活など送ってないからなあ。教員生活の最後15年間を母校の定時制職員として勤めたが、これもまたパッとしない日々だったからなあ、などとあれこれ考えているうちに、ボンヤリと、懐かしさを伴って甦ってくるものがあった。
それは、ケームショ通いした思い出である。
わたしは、小学校5、6年時は、夜、町の相撲道場に通った。強くなかったものの、まわしを締めて裸でぶつかり合うのが大好きだった。中学校に入ると、柔道部に所属した。これまたちっとも上達しなかったけれど、3年間続けた。格技好きの少年だったのである。 これがまた高校に入ったら、コロリと変わってしまい、1年生の時はまず新聞部に所属。柔道や相撲からはすっかり遠ざかってしまったのであった。かといって新聞部が面白かったかといえば、実のところ不熱心な部員でしかなかった。そして、1年生の秋頃からはにわかに読書好きになってしまい、家の中ではもちろんのこと、学校で授業を受けていてもコソーッと本を読む始末。読むだけでなく、自分でもヘッポコ文章を綴ったり俳句をひねったりする。いわゆる「文学少年」となってしまい、そのうちには「文学部」という、固苦しい名のついたところに入部した。
男子生徒は少数で、圧倒的に女子が多かった。居心地は良くなかったものの、それでも退部はしなかった。そして、2年生の時、年に1回だけ文学部で発行する文芸誌「繊月」を編集する役割を、任せられてしまった。あれは、本来なら3年生がその役をするのが自然な成り行きだろうが、なぜ2年生のわたしでなくてはならなかったのだろうか。そこのところの事情はよく覚えていない。
しかも、文芸部には金があまりなかった。折りしも、人吉高校は創立40周年を迎えようとしていた。だから、例年よりも2倍ほど分厚いものにしようということであったが、ごく少ない予算の中から文芸誌を出すための資金を捻出できるか、どうか。人吉市内の印刷所で見積もりをしてもらったら、90ページほどのものを作るのに10万円ぐらいは印刷費がかかるのだそうであった。予算が足りない。困ってしまい、国語科の丸尾常喜という先生に相談してみた。先生は、当時27、8歳であったろう。小柄で、痩せていて、度の強そうな眼鏡をかけておられた。だから、一見カタブツそうに見えるのだが、喋り方がいつも活き活きハキハキしており、分かりやすかった。当然この先生の授業はとても面白くて、夏目漱石や志賀直哉等の文学の魅力など色々とたくさんのことを教えてもらった。
さて、その丸尾先生であるが、
「前山君、熊本の刑務所に行ってみないか」
と仰るのだった。
「エッ、ケームショ、ですか?……」
なんでまた、ケームショなのか。正直、腰が引けてしまった。しかし、こちらがビビっているのはお構いなしに、さっさと刑務所に連絡をつけてくださった。
「とにかく、あそこだったらそんなに金がかからないはずだ。一度、刑務所に行って、詳しいことを聞いて来なさい」
と言われたので、夏休みの終わり頃であったか、あの時は確か1人だけで熊本市渡鹿(現在、熊本市中央区渡鹿7丁目)の熊本刑務所へ出かけてみたのであった。あの頃、人吉駅から急行くまがわ号で約1時間半、熊本駅までの乗車賃が250円だった。急行くまがわ号に乗ったから急行料金も要ったはずだが、そこまでの金額は記憶にない。熊本駅から刑務所までは、バスの便があった。
コチコチに緊張して刑務所の門を入ったのであった。ただ、正門から入る時、応対してくれた人が、わたしが人吉高校の生徒だと分かると、途端に和やかな表情になって、
「おや、そうですか。わたしも、実は、人吉高校の卒業生です」
と仰るではないか。この一言でドッと緊張が緩んだ。そして、その日は刑務所の作業課で担当の方に会い、説明を受けてから帰った。何でも、刑務所では、受刑者たちの更生を手助けするために職業指導が行われているのだそうだ。木工などは最も盛んだったようだが、印刷部門もあった。さて、肝心の印刷費であるが、驚いてしまった。丸尾先生が言ったように、常識外れに安かった。90ページになりそうな原稿の量であったが、それを2万5000円で印刷し、製本までしてくれるというのであった。人吉の印刷所が見積もりした10万円からすれば、4分の1ではないか。ありがたいことであった。
雑誌が出来上がるまで、刑務所に何回通ったであろうか。回数を覚えていないが、5回も6回も出かけたのではなかったろうか。そんなとき、学校は特別に休んで良いのであった。それだけは嬉しかったので、朝早く出かける準備をいそいそとやっていると、祖母などはわたしの様子を見て、毎度、
「えらい愉しそうじゃが、どけ行くと?」
と聞く。わたしが、
「うん、ケームショたい」
面倒くさいのでそうした答え方をすると、「ケームショ……、それは、何かにゃな?」 わたしがちゃんと「ケイムショ」と答えておれば分かってもらえたのだろうが、いつも「ケームショ」としか言わなかったので、祖母はついに分からずじまいのまま、
「今度もケームショや? そんならば、行って來(け)え」
と送り出してくれていた。
たいていは日帰りだったが、泊まりがけの時もあった。そんな時は刑務所の近くに幼なじみが下宿していて、東海大学第二高校(現在の熊本星翔高校)生であった。そこに泊めてもらった。
ある時、熊本で刑務所の用事を済ませて、夕方、帰りの急行くまがわ号に乗りこんだら、前の席に座っていた中年の男の人とたまたま会話を交わすことになった。男の人が、
「そう、高校生ですか。で、今日は平日じゃが、何の用で、熊本に?」
と訊ねられたので、
「はい、ケイムショに」
祖母に対する時とは違って、ちゃんとそう答えたところ、男の人の顔がにわかに険しくなった。その表情の変化を見て、気が咎めるというか、バツが悪いというか、自分としては困ってしまったことを覚えている。
刑務所では、係官の人に会うだけでなく、服役中の人たちと一緒に印刷室の中で原稿の読み合わせや校正作業をしたり、ある時などは活字を拾うのを手伝ったこともあった。最初はオッカナビックリ、緊張して体が震えたものであったが、しかし今から考えると印刷室で作業する囚人に険悪そうなタイプは誰もいなかった気がする。
ある時は、ちょうど刑務所内で製作された家具類を一般開放のかたちで展示・販売する催しも行われた。ワイワイ、ガヤガヤと、まるでお祭のような賑やかさであった。
さて、文芸誌であるが、刑務所は、印刷代が安い代わりに作業の進み具合がひどく遅かった。やはり囚人さんたちの更生のための作業、素人の仕事である。原稿を渡してから出来上がるまでには、えらく時間がかかった。秋の創立記念文化祭に発行の予定が間に合わず、年を越してしまい、「繊月」第8集は昭和40年(1965)2月5日になってようやく発行にこぎつけた。作品を寄せているのは3年生が8名、2年生が22名、1年生は少なくて3名であった。3年生部員には、後に童話作家として『ふたつの家のちえ子』など名作を書いて活躍する今村葦子さんや作詞家となった北村英明さんがいたが、なぜか作品は寄せられていない。ともあれ、創作やエッセイ、詩、俳句、短歌、読書感想文、紀行文というふうに色んな作品が載って、本文だけで92ページ、町の商店や会社等の広告が4ページ分、合わせて96ページ。だから、本当に分厚いものとなったのであった。印刷代は、見積もり通りの25000円。
丸尾先生も他の先生たちも、みんなの作品に丁寧に感想や助言をして下さった。丸尾先生は、わたしの書くものについては、「繊月」には「亀」と題した短編や紀行文「狗留孫の里を訪ねて」が載っていたが、
「君は老成している。作品に、青春が表現されてないね」
と、きわめて厳しい批評を下さった。その後も一貫してわたしの書きものには批判的であった。
その丸尾常喜先生は、間もなく北海道大学へ転出され、やがては東京大学教授となられた。中国文学の特に魯迅研究が専門で、著書に『魯迅 「人」「鬼」の葛藤』(岩波書店)等、何冊もある。2008年(平成20)に71歳で亡くなられたそうだが、ほんとに良い方だったなあ、と、今でも丸尾先生には感謝し、尊敬している。
ちなみに、「繊月」の次の第九集は人吉市内の香文堂というところで印刷してもらった。これは、その香文堂の親爺さんが、
「ケームショがそぎゃん安かとなら、ワシも勉強してやるばい」
と言ってくれたからであった。だから、印刷代は、刑務所と同じ25000円で済んだ。ただし、本文42ページ、広告8ページ、合わせて50ページという薄さである。さすがにケームショほど格安ではなかった。
――このような思い出話でも書けばよいものであろうか。いやあ、現在高校生である後輩たちには、ちっとも参考にはならん話であろう。執筆は、辞退しようかな。