第422回 鰻がおいしかった

 今年の夏はひどく暑かった。
 去年までは家でクーラーを使うのはなるべく控えるようにしてきたが、今年ばかりは結構お世話になってしまった。ただ、寝るときにまでクーラーに頼るのはどうしてもイヤなので、我慢し、その代わり風呂桶にいつも水を満たしておいて、夜なか汗だくになった時は風呂場に下りて行ってザブンと浸かるようにしている。わが家は井戸水なので、冷水浴はまことに心地良い。
 そして、無性に鰻を食いたくなった。といっても、鰻料理専門の店に出かければ金がかかるから、生協を通して冷凍物を買ったわけだ。蒲焼きした鰻を凍らせてあるのだが、それを電子レンジで解凍し、タレをまぶして賞味する。どうせ冷凍物だからと高を括っていたが、いやいや、食ってみると、これがバカに出来ない味わいだ。何というか、身がフンワリ柔らかで、心地良い口当たり。タレがまた程よい甘辛さである。なかなか悪くないな、と思った。
 それからまた、ある日友人たちと一緒にうどん屋へ入ったのだが、そこの季節限定メニューに「ミニ鰻丼セット」というのがあり、1000円ちょっとしかしない値段だ。「ミニ」と称するだけあって、小さめの丼に御飯が盛ってあり、その上に薄っぺらな鰻が二切れだけ載っている。このミニ鰻飯の他に素うどんがつく、というわけだ。これも、食ってみたら悪くなかった。薄っぺらな二切れであろうと、鰻は鰻である。それなりにマッタリした食感が愉しめるのだった。
 だから、わざわざ専門の鰻料理の店にまで出かけて馬鹿高い料金を払わせられるよりは、こうした安易な方法でも充分なのだよな、と思った。
 今でこそ鰻は絶滅危惧種とされ、贅沢な食べ物と化してしまっているが、少年の頃はちっとも特別のものなんかではなかった。夏、自分たちで川に入り、捕っていたのだ。 
 小さい頃から水遊びをして育った。小学校3、4年生頃まではふるさとの球磨川支流の山田川という川で泳ぎ方を身につけ、魚捕りの初歩的なやり方も上級生たちから教わった。5年生頃から球磨川本流の方へ出て行き、早瀨を泳いで渡ったり、深い淵へ行って潜ってみたりするようになった。そして、川で鰻を捕るには、まず釣る方法。短めの竿の先に道糸をつけ、餌のミミズを鉤(はり)に刺してから、夕方、その仕掛けを川の中の岩と岩との間のすき間に差し込んでおく。朝になって、まだ暗いうちに行ってみると、おお、鰻が食らいついている! という具合だ。
 あるいは、水中眼鏡つまりゴーグルを顔に嵌め、「鉄砲イザリ」と称するハンディな漁具や鉾(ほこ)を手にして深みに潜り、川底の岩陰に潜む鰻を探すのである。鰻はしばしば奥の方から顔を出したり、引っ込めたりをくり返すものである。あれはそのようにして呼吸をくり返しているのだと思うが、鰻が奥の方から頭を現す瞬間を逃してはいけない。現れるタイミングを捉えて、すかさず仕留めるのがコツであった。
 鰻は体がヌルヌルしていて、手で掴むのは結構難しい。タオルか何かで包み込むのが最も確実なやり方だが、そういう小道具がない時は、鰻の鰓(えら)の部分を人差し指と中指を使って挟み込むとなんとかなっていた。
 そういうふうにして鰻を捕らえたら、もう嬉しい嬉しい。わが家へ持って帰り、祖母にまず見せていた。家の炊事は、美容師としての仕事が忙しい母よりも、むしろ祖母の方が主にやってくれていたのだ。祖母は、いつも獲物を見て誉めた後、焼いたり煮たりした上で弁当に入れてくれていた。常ならば弁当のお菜は漬物や佃煮が中心だったが、その時ばかりは御馳走、しかも自ら捕ってきた獲物なので、子供心に誇らしい気持ちであった。
 いや、鰻取りに関しては、本当はまだ本格的な漁法があった。4歳上の兄たちが熟練していたのであったが、鰻テゴを使っての漁である。1メートルほどの長さの鰻テゴは、竹製だ。このテゴの奥にエサとなる大きなヤマミミズをたくさん入れておき、エサが逃げ出さぬよう雑草を詰め込む。そのような仕掛けを、夕方、川の中の鰻の通りそうなところに沈めておく。次の朝早く様子を見に行くと、うまく行けばテゴには鰻たちが入り込んでいるのであった。
 兄たちはこの漁法に慣れていた。わたしなどは、これを習い、やってみていたけれど、なかなかうまくいかなかった。川の中にテゴを浸けておいても、翌朝、中には鰻は入っていない。「鰻の通り道」というものを見つけることができない。どうやったら兄たちのように習熟できるのか首を傾げるうちに、兄は高校を卒業し、東京へと出て行ってしまった。
 だから、わたしの鰻取り技術は半端なままだ。でも、それでも少しは鰻を捕った経験があるので、今でも鰻飯など食するとかつての川での日々が蘇ってくるわけである。
 大人になってからは、川の中に入って行って鰻を捕ることはしたことがない。八代市に移り住んでからは、なおさらのことだ。
 だが、2度だけ鰻を釣ったことがある。
 最初は、もう20年ほど以前になろうか、秋の頃、近所の人に誘われて球磨川が本流と分流とに分かれるあたりでハゼ釣りを愉しんだ時である。その時はハゼが結構釣れたのだったが、そのうちいやに強い引きが手に伝わってきた。グイと合わせて引き寄せたところ、おお、40センチ近い鰻がクネクネと姿を現したではないか。これには喜んだ。家に帰ってから、苦心して身を捌き、女房に焼いてもらって、久しぶりに鰻を味わったのであった。
 そして、もう一度は6、7年ほど前、やはり近所の別な人から「夜釣りをしようや」と誘われた。それも、近くのドブ臭い溜池だ。エサにするミミズも釣りの道具もご近所さんが用意してくれていたから、楽だった。そして、暗い中、2時間ほど竿を振ってみたのだが、いや、おもしろかった。鰻が、6、7匹釣れた。鯰(なまず)も、何匹も食いついてきたのだった。
 次の日に熊本から友人が遊びに来たので、これも女房が焼いてくれて、食べてもらった。友人は、「うん、うまい、良いねえ」と喜んでくれたのだが、わたしは手を出す気にはなれなかった。釣りをした溜池は、水が汚いからであった。ただ、そのことは、おいしそうに食べる友人に正直には言えなかった。あんまりおいしそうに食べ、ビールを呷るから、なんとなく本当のことを言いそびれてしまったのであった。
 ところで、鰻テゴで漁をする際の「鰻の通り道」であるが、最近になって田舎で親戚が集まった時にわたしより3、4歳下の従弟が目の覚めるようなことを教えてくれた。従弟は、球磨焼酎を舐めながら、
「鰻捕りは、なあ、楽しかったよなあ」 
 と顔面を緩めるのだった。聞けば、彼も家の近くの球磨川に鰻テゴを沈めて捕っていたそうなのだ。
「だから、テゴをどぎゃんところに置いたら良かかが、なかなか分からんじゃったたい」
 とわたしが言ったら、彼は涼しい顔で、
「鰻の通る道は、少しだけ光るとじゃもんな」
 こううそぶくではないか。
「エッ!」
 わたしにとって、それは全く初めて聞く話だった。だが、従弟によれば、鰻の体はいつもヌルヌルしている。川の底を這いながら行き来する時に、そのヌルヌルが川底に若干残るのだそうだ。そして、
「良ーく見れば、川ん底のヌルヌルがついとるところは光っておったで、なあ」
 従弟は懐かしそうに言うのだった。
 そうか、そうなのか。鰻が這った後のわずかながら光りを帯びた道、それを探し出して鰻テゴを据えてやれば、もう大丈夫なのだな。いやあ、わたしは年老いた今になってようやく肝腎なことを知らされたのであった。
 こういう秘訣を少年のうちに知っておけば、鰻取りは大漁続きだったに違いないのに! それとも、兄たち年上の連中はそのようなことも教えてくれたのだったが、ボンヤリ、ボーッとした弟は、それをちっとも理解できないままだったか。そしてアドバイスしてくれたことなどすぐに忘れて我流のまま下手くそな鰻取りに終始していたのだったか……。ああ、もう、自分はすっかり歳をとってしまっている。少年だった頃には、もはや戻れない。なんだかとても寂しくなったのであった。
 ともあれ、鰻はおいしい。これからも安上がりな方法で味わいたいものだな、と思う。

▲球磨川 画面ではよく見えないが、ここで球磨川は本流と南川に分かれる。南川は右手に流れて行くのである。