第440回 浄土はどげんや 

前山光則 
 
 米本浩二氏の最新刊『実録・苦海浄土』を読んだ。これは力作である。米本氏はこれまで『評伝 石牟礼道子――渚に立つひと』『不知火海のほとりで――石牟礼道子終焉記』『魂の邂逅――石牟礼道子と渡辺京二』というふうに石牟礼道子さんについて評伝を書き続けてきたが、このたびはまた新たな展開が見られたのであった。渡辺京二氏が昭和40年(1965)に雑誌「熊本風土記」を創刊し、その雑誌に石牟礼道子さんが後に『苦海浄土』と改題される力作「海と空のあいだに」を連載する、これが両者にとっては決定的な出会いとなったわけだが、そこのところに焦点を絞り込んであり、たいへんドラマチックな書きものだ。石牟礼道子さんと渡辺京二さんについて理解を深めるためには、この米本氏の仕事に学ぶのが一番だと言えよう。
 そして、この本に書いてあることで「はあ、そうだったのか」と納得させられたことが一つある。それは、『苦海浄土』という書名についてである。
 石牟礼道子さんの『苦海浄土 わが水俣病』は、昭和44年(1969)1月に刊行されている。ベストセラーとなり、水俣病に冒された人たちの姿を世間に広く知らしめたのだったが、最初触れたとおりはじめはこのような題名ではなかった。というか、初稿となるものは昭和35年(1960)1月、「サークル村」という雑誌に「奇病」との題で発表されており、これが『苦海浄土 わが水俣病』中の第三章「ゆき女きき書」の部分の原型である。しかし、本格的には、昭和40年(1965)から翌年にかけて『熊本風土記』に8回にわたって「海と空のあいだに」を連載し、単行本化される際に『苦海浄土 わが水俣病』と改題されたのである。その「海と空のあいだに」が連載された『熊本風土記』は、資金難等のやむを得ぬ事情があってたった1年間(1965年11月~1966年12月)という短命に終わってしまった。だが、渡辺京二氏によって中身の濃い編集がなされ、光芒を放ったのであり、とりわけ石牟礼道子さんの代表作を世に出したこと、それだけでも意義深い雑誌だったと言えよう。

 「『熊本風土記』が発行された一九六五年と六六年は水俣病の歴史において大きな転換の時期だ。六五年は第二水俣病である新潟水俣病の公式確認の年。忘れ去られようとしていた熊本の水俣病にふたたび世の関心が集まる。加害企業や行政の患者圧殺の方針が顕在化し、六八年秋の政府の公害認定に向けて六五、六六年と緊張の度が増す。
 六四年に高群逸枝の著作と出会った石牟礼は五〇年代の水俣での『サークル』の切磋琢磨から民衆史にも関心があった。『水俣病』『民衆史』『逸枝伝』の三つのテーマに彼女が本格的に取り組み始めたのが六五年である。六五年春に帰郷した渡辺は『熊本風土記』に活路を見出そうと、編集者として道子に寄り添う。」 

 わたしがつべこべと『熊本風土記』について論評するよりも、なにより米本浩二氏が「はじめに」の中でちゃんとこのようなことを述べている。石牟礼道子と渡辺京二、この二人が出会うべくして出会い、そして互いの表現へと進んでいく拠り所としての『熊本風土記』だった。
 ともあれ、米本氏の『実録・苦海浄土』一冊を、ほんとに一気に読み通したのであった。いや、そして、それはそれとして、わたしは改めて石牟礼道子さんの夫、弘氏のことが懐かしく思い出された。米本氏の『実録・苦海浄土』の中に、次のようなくだりがある。

「道子、夫の弘、上野の三人で新たなタイトルを考えることになった。六八年一二月中旬、水俣の家に集まる。上野が『苦海』を提案し、『苦海であれば浄土はどげんや』と弘が受けた。五分もたたないうちに『苦海浄土』に決まった。講談社販売部は新タイトルを歓迎した。」

 はあ、なるほど、そういう言い方であったのだな、と、大いに納得した。実はわたし自身もこのことについて触れたことがある。この連載コラム第233回「弘先生を悼む」の中で次の通りに、である。

 「「苦海浄土」の題は、初め作家・上野英信が「苦海」という語を考え出したところ、弘氏が「それなら下は『浄土』とするのが良い」と提案した経緯がある。」

 些細なことかも知れないが、いや、やはり正確に言い表すことは大切なことだ。わたしは関係者からの又聞きで書いており、だから
「それなら下は『浄土』とするのが良い」と記している。しかし、米本氏の方は「苦海であれば浄土はどげんや」である。こっちの方が正確であろうし、第一、石牟礼弘氏の普段の味わいある水俣弁の喋り方で「浄土はどげんや」としっかり再現されているのである。
 そんなわけで、米本氏の好著については読後しばらくして、なんだか、道子さんのことよりも改めて石牟礼弘氏のことが懐かしく蘇ってきた。
 一番の思い出は、あれは昭和50年から数年、わたしは「石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二責任編集」との触れ込みで福岡の葦書房から出ていた雑誌「暗河(くらごう)」の、原稿集めの役割を務めた時期があった。その頃は球磨郡水上村に住んでいて、多良木高校水上分校職員だったが、休みの日を利用して熊本へ通い、松浦豊敏氏の経営していた喫茶カリガリに入り浸って編集作業をやったり、書き手と会ったりしていた。そして、「暗河」の書き手の中には水俣市在住の赤崎覚という人がいて、この人については第139回「闇に裂く魔山の石」で話題にしたことがあるが、「暗河」には「南国心得草」と題した連載をしてくださっていたのである。水俣方面の庶民たちのたくましい生き様を綴る好エッセイであったが、ならぬことには大変な遅筆で、原稿がなかなかできあがらない。それで、渡辺京二氏や松浦豊敏氏がしびれを切らし、わたしに、
「直接水俣に行って、書かせてくれんか」
 とおっしゃる。それで、水俣の赤崎氏宅へ出向いて、ご本人の傍につきっきりで書かせることとなったのであった。そして、夜になれば石牟礼さん宅に泊まらせてもらった。
 ところが、それでも赤崎氏の執筆はまったく捗らない。昼のうちからお邪魔して、夜となっても数行しか進まない。それでも、傍にいて原稿執筆を見守った。そしたら、である。かなり夜が更けてから、赤崎氏が、
「ちょっと、気分転換で、外を歩きたかが、良かかな」
 とおっしゃる。うん、まあそうか。ずーっと家に籠もりきりではいけないよな。気分転換も必要だな、と思った。こうした同情がマチガイのもとであった。
 果たして、赤崎氏は深夜の水俣市街へと出て行ったのであったが、待てど暮らせど帰っていらっしゃらない。アッ、エッ、まさか? 午前〇時をだいぶん過ぎてから、わたし自身も町へさまよい出て、赤崎氏の立ち寄りそうな飲食店を廻ってみた、そうしたら、発見した! 水俣駅の近く、赤提灯のぶら下がるところを暖簾くぐって入ってみると、赤崎さんはそこに居た。赤ら顔で、ニヤッとして、少し決まり悪そうであった。好物の芋焼酎をチビチビ舐めていたのだった。
 夜明け頃になって石牟礼さん宅に戻ったのだが、ご夫妻は早起きして待ってくださっていた。わたしがうな垂れて報告すると、弘氏の反応がまことに味わい深かった。カラカラと笑った後、
「うん、そぎゃんなあ、赤崎とつきあうには、まだまだ修行が必要バイ。頑張れ!」
 と励ましてくださった。あのときの弘氏の笑い方には「大人(たいじん)」の趣きがあったなあ、と、今、しみじみと思う。弘氏自身は、赤崎さんとのつきあいは長くて、その人柄についてはもう充分に知り尽くしていたのである。
 そういえば、赤崎さんは焼酎といえばもっぱらイモ焼酎を呑む人であったが、弘氏も結構たしなむ人であった。いつぞや人吉の球磨焼酎を土産に買って持参したところ、弘氏は苦笑いして、
「いや、米焼酎は……わしはな、イモしか呑まんとばい」
 はっきりおっしゃったことがある。球磨焼酎は米製なのだ。だが、鹿児島県との県境に位置する水俣は、どうもイモ焼酎派の方が圧倒的に多い。
石牟礼道子さんは、熊本の仕事場でもっぱら執筆に勤しむようになってからは水俣へ帰るのは稀になった。やがては赤崎さんも平成2年(1990)1月13日には63歳で亡くなられた。だから、ついつい水俣へお邪魔する機会も少なくなってしまったのだが、しかしたまに立ち寄らせてもらうことがあった。そんなとき、弘氏は一人で家に居られたが、いつも必ず家の中はきれいに掃除がなされていた。そして、スクラップブックなどもきちんと整理して置かれていた。つまり、弘氏は水俣で自宅を守りながら、道子さんの書いたものが目に触れたら必ずきちんと切り抜きをして、スクラップブックに収めておられたのである。実に几帳面であった。
 たまたま水俣に出かけた時に、予告なしに訪ねて行って運良くお会いすることができた時も幾度かあって、
「先生、いつもどんなことやってらっしゃいますか」
 と訪ねると、白髪頭を掻き上げながら、照れ臭そうに、
「うんにゃあ、ヒマ暮らしでなあ、たまには釣りをしにいくとばい」
 魚釣りはずいぶんとお好きなようだったし、それから、
「珈琲飲みにはよく行くがな」
 これも、眩しそうな顔しておっしゃったことがある。行きつけの老舗喫茶店が水俣駅近くにあったのだ。
 弘氏も、2015年(令和元)8月20日に亡くなられた。89歳であった。現在古書店カライモ・ブックスとなっている旧石牟礼宅に訪れると、こういうふうな思い出が蘇って、たいへん懐かしい。

 
 

小さな青柿 家の庭に柿が生っているが、小さい。そして、青い。秋になったらサマになるのだろうか。