第442回 ハッキリ見えるようになった!

前山光則 
 
 今年は夏に入ってから大変暑くて、毎日茹(う)だって過ごさなければならず、ため息つくしかない毎日が続いた。9月に入った今でも、少なくとも昼のうちはまだまだ涼しくなってきたとは言えない。
 しかし、今度の夏は嬉しいこともあった。それは、眼がハッキリとよく見えるようになったこと。
 7月下旬に、両眼とも白内障の手術を受けたのだった。初め右眼の方、一週間置いて左眼だった。手術をしなくてはならぬとお医者さんから告げられた時は、エッ、眼をいじられてしまうのか、と不安だったのだが、実際には痛くもない、時間もそれぞれおよそ30分とはかからなかったのではなかろうか。至って簡単に事が済んで、呆気なかった。
 そして、両眼とも白内障が除去されて後の視界は、まるで嘘みたいに世の中が明るく、ハッキリと、広びろと見えるようになって、眩しい、眩しい。感謝、感謝である。
 手術前、眼の見え方がどうだったかというと、なんかこう、常に薄白いものが広がっているような感じ。自分としては、それが気になるわけでなく、近視だし、乱視の気もあるし、年老いてきているのだから視力が衰えてゆくのもいたしかたないだろう。ボンヤリした見え方しかできないのは、むしろ当然のこと、ぐらいにしか思っていなかった。それに、朝起きた時もっと丁寧に顔を洗っておけば良いのだ。ザッとした洗顔しかしないから、やっぱり眼の中にまだ目ヤニのようなものが残っているのに違いない。だからとて見えないわけでなく、さほど不便さはないからな……、という程度の気持ちであった。
 それが、手術後、いきなり目の前に見える世界がクッキリと、ハッキリと映り、まばゆくなった。健康な眼というものはこんなにも世界を鮮明に映しだしてくれるのだな、と感心する。だから、家の中にいる時はなんともないが、晴れた日に外へ出ると、大変。眼前の景色が明かるすぎて、キラキラキラキラしていて、かえって落ち着かない。医者からは、手術後しばらくは外へ出るときサングラスを使えば楽ですよ、とのことであった。福岡にいる娘が休暇を利用して帰って来たときにサングラスを土産として持ってきてくれたので、嵌めてみたところ、なるほど、ありがたい、ようやく落ち着くのであった。
 そして、こうした鮮明な見え方はとても懐かしいな、という思いがフツフツと湧いてきた。よくよく思い出せば、幼少の頃、景色というものはいつだってクッキリと、輪郭正しく、大変眩しく目の前にあったのだよな、と、記憶が蘇ってきたのである。 
 幼かった頃、夏は毎日川で遊んでいたが、いつもは家の裏に球磨川の支流である山田川という小河川があったから、そこでみんなと遊んでいた。そして、時折り本流の球磨川へも出かけた。わたしたちがまず親しんだのは、中河原(なかがわら)という場所であった。そこは市のほぼ中央部にあり、右岸の九日町(ここのかまち)と左岸の老神町(おいかみまち)とを結んで大橋という橋がある。その大橋は川の真ん中にある中河原を跨ぐかたちで球磨川にかけられているのである。全長、270メートルだ。
 ちなみに、大橋は、もと2本の橋であった。昭和7年(1932)8月に與謝野鉄幹・晶子夫妻が人吉に遊びに来ているが、晶子はここを渡る時の様子を歌に詠んでいる。

 橋を越え中河原越え橋を越え先づ見んとする球磨の禅院

 これはつまり、まず右岸側の「大橋」を越えて、中河原に入る。すると左岸側にまた橋があり、それは「小俣橋(こまたばし)」と呼ばれていた。往事は、その二本の橋を総称して「鳳凰橋(ほうおうきょう)」と名がついていたそうだ。ちょうど大きな鳥が翼を広げているような風情だったから、そう呼ばれていたのであろう。ともあれ、そのようにして川を渡り、與謝野夫妻は対岸の人吉城址裏、東林寺(とうりんじ)という禅寺を訪ねているのである。わたしたち戦後生まれの子どもたちは「鳳凰橋」などとのおごそかな名は知らず、ただ「大橋」と「小俣橋」の違いだけは辨(わきま)えていた。
 中河原では何が楽しかったかといえば、何と言っても浅瀬で遊ぶことである。深い方へ入ると流れが激しくて危なかったから、幼いわれわれは浅瀬で水と戯れるのだ。時間を忘れて水に浸かり、ピチャピチャ、きれいで冷たい澄み切った球磨川の水を楽しんだ。石ころを剥ぐと、隠れていた小魚が逃げ出たり、川虫が這い出て来たりして、そういうのを捕るのも面白かった。そして、もう一つ、あの頃の中河原にはネコヤナギが群生していたので、それを肥後守(ひごのかみ)つまり小型ナイフで切り取って遊んだ。いや、ネコヤナギなどという植物については、実がつくのかどうかも知らなかった。花も、見栄えがいいとは思わなかった。ただ、花穂が銀白色の毛で覆われていて、撫でると柔らかい感触だ。それこそ猫の尻尾にでも触ったかのような手触りが気持ちよかった。家で飾れるように適当な長さに切り取って、持って帰るのが習慣となっていた。
 しかし、である。ある時、不用意に猫柳を切り取ろうとしたら、怪我してしまった。まだわたしは5歳か6歳であったろうか。当時、なぜか左利きであった。勢いよく猫柳に肥後守を当てたところ、手元が狂ってしまい、右手人差し指の先っちょをザックリと怪我してしまったのだった。爪が真っ二つに割れてしまい、血がドクドクと流れて、慌てた。一緒にいた誰かがすかさず手拭いで指先を包み込んで、血止めをしてくれて、少しは落ち着いたのであったが、とんだヘマをやらかしたわけだった。
 あーあ、ケガしてしもうた。ガッカリ悄げて、空を仰いだのだったが、その時の夏空の広大だったこと! 空はムクムクと入道雲がそびえ立っていたが、青空も果てしなく広がっていた。見上げながら首を動かすと、どちら向いても広びろとした夏空なのであった。しかも、眩しい、眩しい。ズクズクとした痛みに耐えながら、思わずため息が出てしまった。空の色も、雲の白さも、対岸の人吉城址の緑の濃さも、両岸に立ち並ぶ旅館や人家のたたずまいも、クッキリ、ハッキリ、眩しくてならぬ。ケガした少年は、痛みよりもその広大さに圧倒され、途方に暮れてしまうほどであった。中河原にたくさん転がっている石ころも、目映かった。 
 怪我したことについては、いうまでもないことだが家に帰ってから親にひどく叱られてしまった。
 そういえば、中河原は、大橋の方の下に小屋掛けして一家族住んでいた。家族は4、5人いたかと思うが、そのうちの一人の男の子はわたしより年が2歳下で、人が好かった。川べりに住んでいるにしては、なぜか泳ぎはちっとも上手くなかった。何度か缶蹴り遊びとか鬼ごっこ等に加えてやったことがあるし、中学校に入ってからはわたしは柔道部だったのだが、彼も入部してきたのにはビックリした。もっとも、彼は長続きはしなかったし、ひ弱で、あまり柔道に向いているとは言えなかった。彼などは、その後どのような人生を送り、いまはどこでどうやって生きているだろうか。あるいは、すでに亡くなってしまったろうか。
 なんだか、白内障手術の後の眩くてならぬ状態が故郷の中河原や、そこに住んでいた人のことまで思い出させてくれたなあ。我ながら懐かしい、くすぐったいような気分である。
 ともあれ、白内障を取り除いてもらって以来、幼少の頃と同じくらいに眩しい外界が蘇ってきて、とても新鮮な気分だ。無論、しばらくの間は外へ出るとサングラスなしでは過ごせなかった。外を出歩いていて知り合いに会うと、わたしがサングラスをかけているものだから、怪訝な反応が返ってくる時もあった。でも、そうしないでは居られないのだから仕方がなかった。
 そして、今は、ようやく健康な眼の状態に慣れてきた。子どもの頃に見たようなはっきりした、明るい、眩しい景色の見え方は、ほんとにありがたいな、と、つくづく思う。