第445回 「雨の中の二人」を聴いた頃

 近頃、刑部芳則(おさかべ・よしのり)著『昭和歌謡史』という本を読んで、とても面白かった。書名のとおり、昭和時代の歌謡曲界がどんなふうに展開したか詳しく辿ってある。歌は世に連れ、世は歌に連れ、実に色いろの歌が流行ったよなあ、というふうに、改めて時代の移り変わりを思い出させてくれる本であった。
 その中に若い頃の橋幸夫が歌った「雨の中の二人」のことが「明るい未来が拓けるような青春に満ち溢れた世界観」を表現したということで語られているのだが、わたしにとって妙に忘れられない一曲だ。

 雨が小粒の真珠なら
 恋はピンクのバラの花
 肩を寄せ合う小さな傘が
 若いこころを燃えさせる
 別れたくないふたりなら
 濡れてゆこうよ何処までも

 この歌が世に出たのは、昭和41年(1966)1月だったという。確かにそうだったのである。わたしがこれを初めて耳にしたのは、昭和41年の2月か3月初め頃だった。東京は神田神保町古本屋街の中にあった食堂で味噌汁を啜っている時、店にあったラジオから流れて来た。だから、「雨の中の二人」が世の中に出回って間もない頃に聴いたわけである。
 橋幸夫といえば、当時パリパリの若手歌手だったが、「潮来笠」「南海の美少年(天草四郎の唄)」「沓掛時次郎」等が出回っており、なんとなく「時代物をうたう歌手」とのイメージだった。今になって思うと、当時すでにこの歌手は「江梨子」のような現代ものも歌っていたにもかかわらず、わたしの中ではどうしても時代物をうたう人という印象が圧倒的に強かったのである。
 だが、神田の食堂で聴いた「雨の中の二人」は、まったくの現代物、しかも恋の歌であった。恋は「ピンクのバラの花」か、なるほどねえ。二人で肩を寄せ合って、相合い傘。それが「若い心を燃えさせる」などとは、うん、当然だ。二人は、別れたくないんだ。しっかり愛し合っているので、だから「濡れてゆこうよ何処までも」というふうになるんだな。羨ましい歌だなあ――「雨の中の二人」を聴きながら、やるせなくなったのを覚えている。 その頃まだ熊本県立人吉高校の3年生で、卒業直前だった。それなのになぜ神田神保町の隅っこで飯をつつき、味噌汁を啜っていたかと言えば、大学受験のために上京していたのである。正確には、私立大学の昼間部を3校受けてみたものの、早稲田・立教・明治というふうに見事に失敗し、うなだれている状態だった。こうなればもう浪人するしかないわけで、だけれども予備校に行こうとは思っていなかった。というよりも、わが家はそのようなところに行かせられるだけの経済力がなかった。だから、ボンクラ息子としては東京でアルバイトをしながら浪人生活を送るか、田舎に帰って自宅で勉強するか、どちらか選択を迫られていた。
 つまり、東京にそのままいるのなら、田舎から仕送りしてもらえる当てはなかった。自活しなくてはならないので、アルバイトして生活費を稼ぎながら勉強を続けることになる。田舎にいると決めれば、その方が経済的には絶対に楽であった。しかし、田舎の自宅での浪人生活、いかにもノンビリとだらけそうだった。さて、どうするか。神田の食堂で飯を食っていた時には、まだ腹を決めていなかったのである。そのような中途半端な状態の時に、ちょうど味噌汁を啜っていて、ラジオから甘やかなムードの新曲「雨の中の二人」が流れてきた、というわけだった。
 だいたい、最初っから大学の二部つまり夜間部を受けているならば、すんなりと受かっていたはずであった。そして、何か自活できるだけの金が稼げる仕事を見つけるならば、スムーズに東京で勤労学生としてのスタートができたはず。
 高校時代のわたしは、1年生の半ば頃から文学書を読み耽るようになり、学校の勉強を怠けるようになった。だから、当然のことながら成績が見るみるうちに下がってしまい、3年生になった頃には進学志望者ばかりの集まる学級の中でほとんどビリに近くて、国立大学はおろか、私立の方ですら昼間部にはどこも入れそうなところはなかった。でも、どうせ自分は家からの仕送りで大学に行ける環境ではないんだ。働きながら学校に行くしかないから、どこか私立大学の夜間部を受験すれば良いのだ。夜間部ならばどこでも楽に受かるだろう、と、ノンビリ構えていたところ、朝日新聞東京本社広告部でアルバイト生をしながら中央大学法学部の二部(夜間部)に学んだ兄が、
「いや、ミツノリ、それは違うゾ。やはり昼間の学校の方が良い。夜間部は、どうしても勉強がおろそかになる」
 と忠告するし、加えて、あるとき実力テストでとんでもない楽チンの問題ばかりが出題されていて、久しぶりに学年で上位の成績になってしまった。そこで、ノボセ上がったわたしは、無謀にも私立の難関校受験に挑戦したのであった。
 結果は、あえなく見事に失敗。そう、浪人することになったわけであった。だから、もう、無理はすまい。来年は最初から東京のどこか私立の夜間部を受けてみよう。――わたしは、そんなふうな、まことに愚かな冴えない挫折をしてしまった受験生であった。
 「雨の中の二人」は、同じ橋幸夫が吉永小百合とデュエットした「いつでも夢を」と同様に明るい未来が拓けるような、青春の歓びに満ち溢れた歌である。そのような明るいムードの歌が、すっかり萎(しお)れきっていた田舎高校生の耳に飛び込んで来たのだから、ほんとにやるせないことであった。もっとも、不思議なことに、ラジオを聴きながら、さほど落ち込んではいなかった。あれはまたなぜであったろうか。当時の自分の心理状態については、今でも不思議でならない。 
 むしろ、定食をつつきながら、歌を聴きながら、みそ汁の薄さがひどく侘しかった。よく東日本方面の味噌・醤油と西日本の方のそれとがずいぶん違う、ということが話題になる。ほんとにやはり違うなあ、とわたしも同感である。しかし、受験に失敗したあの頃も、現在も、だからといってさほど気になるわけではない。つまり、昔も今も東日本風の味と西日本の方の味と両方があるのは面白いなあ、とは思っても、そのどちらかを贔屓にし、片方を否定したいなどとは思わない。それぞれの味だな、と、むしろ興味関心が湧くほどである。
 神田の食堂で定食をつつきながら、橋幸夫の「雨の中の二人」がラジオから流れ出て来た時、そうそう、わたしは大変寂しかったというか、やるせなかった。というのも、そのとき啜っていた味噌汁、これがたいへん薄味だったわけである。都会の味噌汁って、こんなふうにもアッサリなのだ、ケチだなあ、と、それがとても侘しかった。田舎で祖母がいつも作ってくれる濃いめの味噌汁と比べて、ほんとに違っていたから、言うなればその時初めて都会のど真ん中に一人でいることの心細さ、孤独感というものをまざまざと自覚したと思う。
 もう一つ言えば、味噌汁の具は豆腐だったが、これがまた賽の目状に小切りされたものが3、4片浮かんでいたろうか。薄味である上に、具の少なさ。小さい頃から色んな具材が入った味噌汁を食べ慣れてきたので、とても寂しかった。都会の上品さというものは、こういうふうなケチな在り方のことを言うのだろうか。なんだか、都会で生活していく上での気力が萎えてくる思いであった。
 ――そのような折りに、「雨の中の二人」は流れたのだった。

 好きとはじめて打ちあけた
 あれも小雨のこんな夜
 頬に浮かべた可愛いえくぼ
 匂ううなじもぼくのもの
 帰したくない君だから
 歩きつづけていたいのさ

 実に、わたしにとってこの歌は、「帰したくない君」のことを言った歌であるよりも先に、都会の味の薄っぺらさ、ケチ臭さにゲンナリした日をまざまざと思い出させてくれる「テーマ・ソング」となってしまったのだった。だから、あれはほんとに忘れられない歌だ。神田界隈が思い出され、とても薄い味噌汁が蘇り、いやはや、今となってはひどく懐かしい。
 『昭和歌謡史』を読みながら、そのような若い時分のことが久しぶりに蘇ってきて、なんだかしばらく悩ましい時間を過ごしたことであった。
(2024・10・24 )