第449回 スベリヒユはおいしかった!

 前回は『魂の秘境から』に書かれていた鯛茶漬けについて話題にしたのだったが、思えば石牟礼道子さんのエッセイには結構料理の話が出てくる。それは、やはり、御本人がおいしいものへの探究心を常に持っておられたからだよなあ、としみじみ思う。
 しかも、自分で調理するのがまた大変上手であった。だから、石牟礼さんには『たべごしらえ おままごと』という著書もあるが、あれは決して作家の余技みたいなエッセイではなかった。人間生活の中で料理というものがいかに大切な役割を果たすかということへの作家の思いの程が、存分に発揮された仕事である。
 そう言えば、その『たべごしらえ おままごと』の冒頭には、こうある。

 美食を言いたてるものではないと思う。
 考えてみると、人間ほどの悪食はいない。
食生活にかぎらず、文化というものは、
 野蛮さの仮面にすぎないことも多くある。
 だからわたしは宮沢賢治の、
 「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」
 というのを理想としたい。
 もっとも米は一合半にして、野菜と海藻とチリメンジャコを少し加える。
 食べることには憂愁が伴う。
 猫が青草を噛んで、もどすときのように。

 いかにも石牟礼さんである。宮澤賢治の倹約精神を理想に掲げるくらいだから、決して金をかけての贅沢はしなかった人だ。だから、世間にしばしば存在する能天気な美食家ではなかった。ただ、「米は一合半にして、野菜と海藻と/チリメンジャコを少し加える」、このさりげないこだわりと工夫とがいとも容易くできる人であった、と言える。
 それで、思い出すのだが、あれは昭和50年か51年頃であった。わたしは昭和50年(1975)春の転勤で熊本商業高校から多良木高校水上分校に赴任し、学校の裏手にあった職員住宅に入居した。そこは、水上村岩野地区、人吉盆地の最奥部に位置するような静かな田舎である。2年前に結婚し、まだ子どもも生まれていなかったので、妻と二人暮らしであった。
 その頃、石牟礼さんは何度も泊まりがけで来てくださったのである。そして、ゆったりと寛いだり、あるいはわたしたちの住居の中の一室に籠もって原稿を執筆なさったことも幾度かあった。水俣の自宅や熊本の仕事場にいると、往々にして水俣病関連の雑事とか出版社・新聞社等とのやりとりなどが降りかかってきて、落ち着かない。たまには、わたしたちの住んでいる田舎でじっくりと自分の仕事に集中できる時間を持ちたかったのだ、と思う。渡辺京二氏が、石牟礼さんの仕事を手伝いがてら、日帰りで来てくださったこともある。
 あの頃は、愉しかった。
 いつも、何日間かは滞在なさった。石牟礼さんは、原稿を書いている間は部屋に籠もりっきりであったから、その間わたしたち若夫婦はお仕事の邪魔をしないよう別室でひっそりと過ごすのだった。だが、この「本のある生活」の第421回「残夢童女――不思議なことがあるものだ」でも触れたように、市房ダムが渇水期にひどく水位が下がった時には一緒に湖底へと踏み込んでみたこともあった。妻がわたしよりも先に車の運転ができるようになってからは、県境を越えて宮崎県椎葉村の方まで遊びに行ったこともあった。その時は、確か渡辺京二さんも一緒だった。
 いや、それはそれとして、である。石牟礼さんの山菜に関する知識の豊富さにいつも感心した。
 なによりまず、石牟礼さんは、スベリヒユという野草が食用になる、ということを教えてくださった。それは、わたしたちの職員住宅に初めて来てもらった時のことであった。住宅の裏庭が見える部屋へ案内し、わたしが窓を開けたら、すぐさま嬉々とした声で、
「あら、ま、スベリヒユ!」
 と仰る。初め、妻もわたしもキョトンとしてしまった。職員住宅は、わたしなどが水上分校に転任するほんのちょっと前に建てられたばかりであった。だから、家屋が新しいのは言うまでもないことだが、庭はまだちっとも整備されていなかった。砂利が結構転がっているような、手入れがほとんどなされていない状態であったし、またわたしたちも気の利いた庭造りをしようなどという殊勝な気持ちをまだ持っていなかった。だから、荒れ庭であったわけなのだが、そんな庭をひと目見て、「あら、ま、スベリヒユ!」と、いかにも嬉しそうな石牟礼さん。
 言われてみて初めてまじまじと荒れ庭を見入ったところ、確かにスベリヒユだ。茎はつやつやした赤紫色である。肉厚の葉はうす緑色をしており、這うようにして庭に生えているのであった。庭に下りた石牟礼さんは、嬉々としてこのスベリヒユの先の方、柔らかい部分だけを次々に摘まみ取り、ある程度溜まったら水洗いしてからサッと湯がいて、あれは確か辛子醤油和えか酢味噌和えだったか、作ってくださった、と記憶している。
 大変おいしかった。
 なんでもない庭先の野草が、石牟礼さんの手にかかるとたちまちのうちに御馳走と化してしまったのだった。こういうことを、良くもまあ御存じだなあ。スベリヒユという野草が、ちょっとだけ手を掛けてやればあのようにもおいしい御馳走と化す。妻もわたしも、すっかり驚き、感心したわけであった。
 ついでに言えば、石牟礼さんとのおつきあいによってわたしの妻は飛躍的に料理が上手になった。
 それまでは、妻とわたしは、料理の腕前にはさほど差がなかった。わたしなどは、法政大学の二部つまり夜間部の学生だった頃に銀座四丁目の銀之塔というシチュー料理屋で2年3ヶ月アルバイトを続けた関係で、台所での仕事には結構慣れていた。店のメニューはビーフシチューとエビグラタンだけであったが、なじみ客の方から要望があれば店のオバチャンが色々の料理を作って提供していた。アルバイト学生としてはそれをも手伝わされるわけだから、自然とシチューやグラタン以外の料理についてもある程度対応できるようになっていたのだった。
 銀之塔では、朝は、店内の掃除をした後みんなで手早く簡単な料理を作った。それをサッサと掻き込んで、午前11時、いよいよ開店であった。銀之塔は、昔も今も入口の前にズラリと行列ができてしまうほどの人気店である。毎日、てんてこ舞いの忙しさ。それが、午後4時頃になると比較的ヒマになっていたから、スタッフ全員シチューを食べるのであった。そして、5時になると、わたしは仕事着から自分の衣服に着替えて、大学の夜間部の方へ行かせてもらっていた。
 店が忙しい日は、学校へ行くのをサボって夜の閉店時間まで仕事を手伝うことがたびたびあった。そのような時は、店を閉めてから後、あれやこれや皆でおいしいものを調理して晩御飯を愉しむのだ。
 そんなふうな学生生活だったから、結婚生活を始めた当初、料理次第では、例えば卵焼きはわたしの方が上手に作っていた。魚を塩焼きにする時なども、塩のまぶし方だとか、火の加減であるとか、どっちかと言えば妻よりもわたしの方が要領よくやっていた。
 ところが、である。石牟礼さんとお付き合いさせてもらうようになってからは、手ほどきを受けて、妻は、アッという間に台所仕事が上達した。これには目を見張るほどであった。いや、ほんと、感心するほどセンスの良い料理をあれやこれや作れるようになった。
 ともあれ、あの日、わたしたち夫婦は石牟礼道子さんの山菜に関する知識の豊かさにすっかり驚かされたのであった。石牟礼さんは、調理の際の手際の良さ、味つけのセンスがまた実に格別で、だから、いつもたいへんおいしかった。『苦海浄土 わが水俣病』等を読んで心動かされたのと同等に、この人の料理の腕前には感服したものであった。いや、大袈裟でなくそう思った。
 こういうふうなこと、あれやこれやと記憶が甦ってくる。
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 そして、さてさて、今年ももう押し迫ってきた。1年経つのはほんとに早いなあ。溜息がでてしまう。
 では、皆さん、どうぞいい年をお迎えくださいね!
 
2024・12・25