第473回 天草の宿でのこと

 7月28日午後4時過ぎにドーンと地震が襲って来たのには、いやはやすっかり度肝を抜かれてしまった。わが家は、建物自体は大丈夫だったものの、本棚や食器棚等からたくさんのものがこぼれ出たり、庭先から駐車場にかけては液状化現象が起きたり、石段に亀裂が走った。井戸水を汲み上げるポンプが故障したりもした。数日間は、片付け作業以外何もできぬという状態だった。まったく、大自然の行なうことに対して全く歯が立たないなあ、という気持ちだ。
 その頃、実は以下のようなものを書いていたのであった。
   *  *
 最近、渡辺京二氏の『神風連とその時代』が中公文庫の一冊として刊行された。そのことを知ったのは、実は、渡辺氏の長女・山田梨佐さんが1冊送ってくださったのだった。梨佐さんには心から恐縮し、感謝した次第である。
 パラパラと本を捲っていて、ふと気づいた。巻末に「神風連日記(抄)」というのが載っている。これは渡辺さんの日記の抄録である。だから、これは、神風連についての考察よりも、むしろ『神風連その時代』執筆中に御本人がどのような日々を過ごしておられたかが窺える記録だ。読んでみて、ビックリしてしまった。この「(神風連日記(抄)」の中に、亡妻やわたしのことも出てくるのである。
 
 「日記を読みかえしてみたが、四十九年には脱落があって、どうもそのころのことがよくわからない。この二年ばかりのあいだでは、前山夫妻と親しくなったことが何よりも大きなことだったと思う。前山氏のような、何といったらいいか、あら珠のような人物は、なかなかいるものではない。先日の天草の宿でつくづくこの人の得がたい美点を感じた。桂子さんについては、なかなかいいがたい思いがある。私は少年のころはこういう女性を夢みていたのだと思う。こんな人が人吉から生れたというのが不思議な気がするが、よく考えると彼女にはやはり人吉の深い霧のなかで育ったといったふうなムードがある。この夫妻と親しくなれたのは私の後半生のしあわせであるだろう。自戒すべし」

 つまり、これがあるので山田梨佐さんも気を利かせてわたしに贈呈してくださったのだと思う。
 いやはや、なんともすっかり恐縮してしまった。わたしが渡辺京二さんに初めてお会いしたのは、この連載第411回「渡辺京二さん逝去」の中で触れているとおり、昭和44年(1973)12月22日か23日であった。これはわたしが覚えていたのでなくて、渡辺さんから教えてもらったのであった。熊本市上通裏にあった喫茶店「カリガリ」で行われた同人誌「暗河(くらごう)」の会合にわたしが初めて参加した時のことであった。そのことは覚えていたが、はっきりした年月日までは記憶していなかった。渡辺さんは、ちゃんと覚えておられたのだった。
 そして、「神風連日記(抄)」であるが、これは渡辺さんとおつきあいするようになって5年後ということになる。その間、わたしは暗河の会の会員として「暗河」に評論や小説を発表したり、カリガリでの会合に加わったり、といったことが続いていたわけだ。
 「先日の天草の宿」については、自分でもかなり鮮明に記憶している。日記にも記しているので、辿ってみるが、あの時の天草行きは、石牟礼道子さん・渡辺京二さん、そして熊本日日新聞社の久野啓介さんも加わっていた。これにわたしたち夫婦も同行し、総勢5名、年末の天草上島へと遊びに行ったのであった。宿は、栖本(すもと)の「ことぶき旅館」だ。木造2階建て、いかにも古くからある地元の旅館、といった風情であった。古い旅館だが、しっかりした建物なので、現在でも栖本集落の中心部を貫く往還沿いにその佇まいを見ることができる。
 あの時は、実に愉しかったのだった。旅館の2階の一室で夕方から食事をし始めたが、飲んだり食べたりしながらの談義が弾んだ。無論、「午前様」となってしまった。でも、その折りのわたしと言ったら、若さの勢いで盛んに食べるし、酒を呑むし、到底「美点」を感じ取ってもらえるような状態ではなかったはず。むしろ、亡妻の方が、あれやこれやとみなさんの世話をしてくれていたから、感心してもらえる状態だったと思う。
 では、なんでまたあのことぶき旅館でのわたしは「得がたい美点」を発揮し得ていたのであったろうか。 乏しい記憶を辿ってみて、辛うじて一つだけ思い当たることがあった。それは、あの夜、焼酎に酔い痴れて調子の出たわたしは、みんなの前で歌をうたったのだ。歌謡曲でなく、そう、民謡「五木の子守歌」。

 おどま かんじん かんじん
 あん人たちゃ 良か衆(し)
 良か衆(し) 良か帯 良か着物(きもん)

 それも、昭和25年(1950)に発売され評判になった3拍子による「五木の子守歌」ではなく、2拍子のものである。五木村に伝承されている子守唄は、いくつもの歌い方がある。3拍子のもあるから、その中の一つが専門の作曲家によって磨き上げられ、世間に出回ったわけだ。一方、2拍子の方も、歌い手によって少しずつ違った趣きを有して伝えられている。
 わたしが栖本の宿ことぶき旅館で歌った2拍子の方の「五木の子守唄」、これは石牟礼さんも渡辺さんも久野さんも、あの日の夜、実に初めて聴いたのだそうであった。いや、だから、あの日の夜、たいへんに受けたというか、注目してもらえたのだった。

 おどま かんじん かんじん
 がんがら打って さるく
 ちょかでまま炊(ち)ゃて 堂に泊まる

 おどんが 打っ死(ち)ぬ ちゅうて
 誰(だい)が泣(に)ァて 呉りゅうきゃ
 裏の松山ァ 蝉が鳴く

 わたしが「あら珠」のようであったとすれば、そのようなことぐらいしか思い当たらない。むしろ亡妻の方が気が利いており、際だっていたはずである。渡辺さんが、「こんな人が人吉から生れたというのが不思議な気がする」と書いておられるのは、わたしなどもまったく同感だ。それにしても、わたしのことも含めての言い方「この夫妻と親しくなれたのは私の後半生のしあわせであるだろう」には、まったく、すっかり恐縮してしまった。
 石牟礼さんや渡辺さんと親しくつきあいをさせてもらったことについて、これは本当に言い尽くせないなあ、という思いだ。「「神風連日記(抄)」を読んで、今更ながら心からなる感謝の念がじんじんと湧いてきたことであった。
   *  *
――と、まあ、このような一文だ。地震については、別個に詳しく報告すべきところだろうが、なんだか、今、ちっともその気になれないでいる。

2026・8・4