前山 光則
1月10日のこと、熊本市の県立図書館へ立ち寄った折り、玄関ロビーの隅に置かれた種々のパンフレットの中から「そうだ! 記念館へ行ってみよう!!」というのを見つけた。熊本市内の「夏目漱石内坪井旧居」や「徳富記念園」等々が紹介され、案内地図も載っている。とりわけ「後藤是山記念館」が水前寺二丁目にあると判り、それなら今から歩いて10分ほどで行けるはずである。天気も良かったし、昼前から訪ねてみたのであった。
ところが、水前寺公園の入り口付近で土地の人に尋ねても首をかしげるだけだ。客待ちをしているタクシー運転手さんは、「ゴトー、ん、ゼザン? いやあ……」と頭掻き掻き呟く。しかし、その人の背後に観光案内地図が設置されているので覗いてみたら、ちゃんと後藤是山記念館の所在がわかるように記してある。「ほら、ここに行きたかとですたい」と指差してみせて、ようやく分かってもらえた。地図が示した通りにまっすぐ進み、大きな四つ角を渡ってから右手二つめの路地を入って行くと、左手に雰囲気ある家が見えた。
是山邸の一部を利用して建てられた記念館は、清楚なたたずまいで感じが良い。中に入ると見学者もなくひっそりしていて、館長の山下昭治氏が丁寧に案内してくださった。是山は、明治19年、大分県久住町に生まれている。本名は祐太郎。早稲田大学中退後、明治42年に九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)社に入る。2年経ってから国民新聞社に記者留学するが、この折りに主宰の徳富蘇峰から新聞人としての直接の指導を受けた。山下氏の説明では、蘇峰は是山を文芸記者として高く評価したらしい。是山は熊本に帰ってからも蘇峰から受けた薫陶を生かして九州日日新聞の文芸欄の充実に努め、また自身も『肥後の勤皇』『肥後の文人画』等の著述をつづけるし、郷土史をやる人たちにとって必須の文献『肥後国誌』の編纂もなしとげている。昭和61年に逝去、享年99歳であった。
是山は俳句もたしなみ、俳誌「かはがらし」「東火」を主宰したが、山下氏によると句の作り方についてはまったく我流だったという。人吉出身のホトトギス派系の俳人・上村占魚は、十代の一時期、是山邸に内弟子として住んだのだそうで、であれば是山は高浜虚子系かなと思っていただけに、意外であった。
館内には是山の遺品類だけでなく蘇峰や与謝野寛・晶子等の遺墨も沢山展示してあった。記念館の横の是山旧居も観せてもらって、おいとまする頃には午後2時を過ぎていた。
こういう記念館はもっと知られるべきだ。ただ、近くの住民やタクシー運転手すらその存在に疎いような場所へ、迷い、戸惑い、やっとこさたどり着く、というのもかえって印象深く心に残るから、悪くないのかな。是山の「日の入りて去りゆく人に冬の雨」等の句を読み味わいつつ、今、そんなふうにも思う。