第269回 「草枕」の中の一節

前山 光則

 8年前から、主婦の方たちの読書会の講師を務めている。例会は月に1回行われ、所定のテキストを読み、感想を述べ合うのが愉しい。先々月から取り組んでいるのが夏目漱石の「草枕」だが、それで、発見があった。
 主人公の画工が那古井の宿に泊まって、夜中、目が覚める。障子を開けて外の夜景を見ていると、背の高い女の影が動いたように思えた。なんだか気になり、余計な考えが頭の中に渦巻いたりして「こんな事なら、非人情も標榜する価値がない」と自らを諫めるのである。そして、こんなときどうすれば「詩的な立脚地」へ戻れるかといえば、「十七字にまとめて見るのが一番いい」と画工は考える。
「ちょつと涙をこぼす。この涙を十七字にする。すると否やうれしくなる。涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だといふ嬉しさだけの自分になる」
 こういうふうに容易に「詩人」になれるから、これは「功徳」であって、尊重すべきだ、というわけである。実際に「春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪」「春や今宵歌つかまつる御姿」「海棠の精が出てくる月夜かな」などと十七文字すなわち俳句をひねるうちに、主人公はうとうとと眠くなる……、このくだりを読んで、アッと叫びたいほどであった。実はわたしもこの連載コラムの第137回「眠れぬ夜に眠るには」で、次のように同じような趣旨のことを記したことがあるからだ。
「言い表したいことを五七五にまとめるためには、ああでもない、こうでもないと苦心せねばならない。しかも季語を必ず用いねばならぬ。そんな七面倒くさいことでありながら、不思議なもので生活苦や病気の心配、原稿の締め切り、手紙の返事の遅れとかを忘れるのである。忘れないまでも気にならなくなるわけで、五七五を、ああでもない、こうでもない、と……すると、頭がくたびれてきて、いつしか睡眠状態に入っている。気づくと朝だった、という具合だ。」
 この考えは今も変わらない。こないだから地震に恐れおののいた時期にも、夜間、不安で眠れぬ状態に悩まされつづけたが、頭の中でしきりに五・七・五の十七文字をひねり出しているうちに平常心が回復できていた。だから、俳句総合雑誌「俳句界」から震災時にどう過ごしたか書けと原稿依頼が来た時には、そうしたことを「夜中の五・七・五」との題でまとめ上げて、送ったのだった。もうじき発売される9月号に掲載されるはずだ。
 思えば「草枕」は俳句的な趣きの小説であり、こうした本質論が展開されていて当然だろう。しかし、若い時期に読んだが、気づかなかったなあ。いや、実は意識しなかっただけで、本当はすっかり影響されていていたのかも知れない。なんにしても「草枕」中の俳句論はまったく同感で、たいへん嬉しかった。
 
 
 
写真 湧水

▲湧水。阿蘇市の二重峠の麓、的石(まといし)御茶屋跡の庭園である。阿蘇外輪山からの地下水が庭園のあちこちから湧き出ていて、涼しい景色である