第270回 『天草五十人衆』を読む

前山 光則

 最近、猛暑にめげず読みふけったのが天草学研究会編の新刊『天草五十人衆』(弦書房)である。書名のとおり天草地方が輩出した人材の中から50人を選び出し、その生き方・業績などが各執筆者により紹介されている。
 教えられるところが多かった。まず、天草市楠浦を流れる方原川の流路のことである。東進してきた川が、海の近くで急に進路を右に変えて直角に南進する。これは新田を水の害から守るため庄屋の宗像堅固が大英断を下し、文久元年(1861)から4年間にわたって流路変更の大工事を手がけた結果なのだそうだ。しかも、堅固は工事竣工後の川岸に桜の木360株を植えて村民の行楽の場とした。新しい川には帆船が往き来し、春にはシラウオが捕れるようになったのだという。
 それから、小山秀(こやま・ひいで)は幕末の頃に長崎のグラバー邸など外国人居留地の建設工事を手がけた。天草へ帰ってからは三角西港を築造する。この港は明治三大築港と称され、今も昔に近い姿を偲ぶことができるが、映画「おくりびと」の脚本を書いた小山薫堂はその曾孫というからビックリした。
 天草市本渡町の明徳寺の23世住職・安田祖龍がまた人物だったようである。昭和21年に昭和天皇が全国巡幸した際に、天草にもお出でいただきたく島内の各種団体が県に陳情しに行った。その折り、当時の桜井県知事が、「天草へんまで、どうして……」などと発言。これには陳情団が怒った。特に安田は「天草も日本のうちですばい。二十万余の島民がおります。どうしてもお渡りが叶わなければ飛行機の上からでも……」と抗議しただけでなく、「それも無理なら天草は(日本から)独立します!」と言い放って席を蹴ったのだという。昭和天皇は昭和24年5月に天草へ来てくれたので、これは安田の「独立します!」の迫力が効けたのであったろう。
 大相撲ファンにとって懐かしいのが、昭和の名大関・栃光である。天草市深海町の出身で、押し一筋というひたむきな取り口、美しい四股、塵を切るときのまっすぐ伸びた両手の返し、しかも決して「待った」をしなかった。この栃光の項の執筆者・田口孝雄氏は、高校教師だった頃に求人で学校を訪れる人事担当者が、口々に「天草出身の方はみな、真面目で勤勉、正直ですね」と褒めていたとあかす。田口氏によれば、そうした天草人の典型が栃光であった。「真面目・勤勉・正直の、名もなき多くの天草びと、いわば幾千幾万の『小栃光』たちの奮闘努力の歳月を思い見るべきではあるまいか」、こう述べる。そう、天草には栃光的な好人物が多い。実に言い得て妙、深く感じ入る一言であった。
なお、国会議員として活躍した園田直は俳優・高倉健と交友があって、健サンはたびたび天草へお墓参りに来ていたという。これはもっと具体的に詳しく書いてほしかった!
 
 
 
天草市本渡町の明徳寺

▲天草市本渡町の明徳寺。右側に異人の顔を持つお地蔵様。後方に寺の山門が見える。曹洞宗の寺