浦辺登
『南洲遺訓に殉じた人びと』2
福岡市の中心部から南へ二十キロほどのところに、二日市温泉(福岡県筑紫野市)がある。その昔は「博多の奥座敷」と言われたが、交通機関の発達にともない、奥座敷はさらに奥地へと移動してしまった感がある。
その二日市温泉のはずれに、大丸別荘という老舗の温泉旅館がある。マイカーでの宿泊客が増えたことから玄関口は幹線道路側に移ってしまった。古くからの利用者にすれば、温泉街に面した玄関の方が趣があって良かったのにという声も聞かれる。両方にフロントを設けておくこともできず、旧玄関口は閉まったままになっている。その旧玄関脇に、ひとつの石碑というか石柱がある。
しかし、人通りも少なくなった上に、オブジェのようにも見えるため、誰もこれが石碑であるとは気づかない。
さらに、よくよく見ると、流麗な文字が彫り込んであるため、前衛的な彫刻にも見えないことも無い。何と書いてあるのか、誰の手跡なのかも、まったく不明。
ただ、ありがたいことに、銅板をはめ込んだ案内が付いていることから、三條実美が歌を詠み、書にしたものであると分かった。
《ゆのはらに あそぶあしたつ こととわむ
なれこそしらめ ちよのいにしえ》
三條実美たち七人の公卿は、文久三年の八月十八日の政変で京の都を追われ、長州に西下した。いわゆる「七卿落ち」と言われる事件だが、さらに太宰府天満宮(福岡県太宰府市)の延寿王院に五人の公卿が移転してきた。
そして、時折、この二日市温泉(当時は武蔵温泉と呼ばれていた)での湯あみを楽しんだというもの。その歌の内容は意味深く、千年も生きる鶴(あしたつ)ならば、千年前のことを知っているだろうと、問いかけたもの。つまり、千年前は武家政治ではなく、王政の世であったはずだと。王政復古を待ち望んでいるのだと、掛けている。
さらに、西郷隆盛、平野國臣らと太宰府で王政復古のための維新の策を練っていたとも記されている。
その人生において、浮き沈みの激しかった西郷さんだが、身を隠したとする石碑に維新の策を練ったとする石碑。これでは、まだまだ、点と点との線が結びつかない。