第九回 西公園の平野國臣像

浦辺登
 
『南洲遺訓に殉じた人びと』9
 
 桜の季節、福岡市内の名所といえば西公園になる。福岡城跡から博多湾に向けて小高い山があるが、荒津山とも呼ばれる一帯が西公園になる。この荒津山こと西公園に桜などが植えられたのは明治二十二(一八八九)年のことだった。桜四百二十五本、もも百本、かいどう五十本が植えられたという。
 その西公園入り口に鳥居があるが、これは明治四十二(一九〇九)年に光雲神社(てるもじんじゃ)が設けられたものによる。光雲神社の祭神は黒田孝高(如水、官兵衛)、黒田長政を祭神として、もとは福岡城内にあった社だった。その光雲神社の参道を昇ってすぐ、左手に平野國臣の銅像が見える。平野國臣を祭神とする平野神社は鳥飼神社が管理しているので、神社関係者は「西公園の平野國臣の銅像を見て行ってください」と言われる。
 平野國臣の銅像はこちら。そう言わんばかりに道案内の看板があるが、さほど、多くの方が訪ね来る雰囲気ではない。ひとつには、やや、不便な場所にあることから、桜の季節以外に足を運ぶ人が少ないようだ。さらに、道路から奥の広場にあるため、目だたない。近づいてみれば大きいのだが、「何か、ある」程度にしか見えない。
 この平野國臣は福岡藩の武術師範平野吉蔵能栄の次男として、地行下町(現在の福岡市中央区地行)に生まれた。平野は文政十一(一八二八)年生まれだが、この頃、シーボルト事件が起きている。長崎のオランダ商館の医師であるシーボルトが禁制品の品々を極秘に持ち出そうとして発覚した事件だった。
 平野國臣の銅像は大正四(一九一五)年に建立された。この銅像が建立される前の年、ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発した。日英同盟下、日本海軍は地中海での作戦に従事し、大陸のチンタオを日本は攻めた。それでいて、北アメリカ大陸では日本人の渡航禁止、排日の気運が盛り上がっていた。対外的に、日本の行く末を見据えた平野國臣の意気を銅像建立でアピールする意味があったと思われる。
 その銅像も昭和十八(一九四三)年、金属供出となった。今、二代目が西公園には佇立している。
 
 
 
SONY DSC

▲平野國臣像