前山 光則
熊本県八代市。この町に住み始めたのが昭和54年(1979)春だった。転勤で移って来たのだから、4、5年ほどで他所へ行くつもりだったのに、身の回りに種々の事情が重なったため住み続け、とうとう39年経ってしまった。わが子にしてみれば、完全に八代が「故郷」である。こうなれば、ここに住み続けるしかないのであろう。ただ、そんなに長く八代で生活しているというのに、故郷・人吉の方言や訛りがちっとも抜けない。我ながら感心するほどである。
八代と人吉は隣接していながら、「言語生活」がだいぶん違うのである。第一、八代は喋り方が荒い。「粗い」と言ってもいい。標準語で「そうなの?」は人吉では「そぎゃんな?」と柔らかい言い方であるが、ここ八代では「そがんか?」となり、口調にも固い勢いがある。初めのうちは単純な疑問を言っているとは受け取れず、なんだか喧嘩を吹っかけられているようであった。「そうだ、そうだ」と相手に同意・同感を示す場合、人吉では「ジャッジャッ」である。これを無理に標準語風に言おうとする時には「です、です」となる。だから、東京に住んでいる場合でもついつい「です、です」と使ってしまうので、人吉出身であることがすぐに分かってしまう。八代の人たちはこのような言い方はせず、「ソガン、ソガン」である。これを標準語で言えば「そうだ、そうだ」になる。
こうしたふうであるから、時折り、日常の中で八代の人たちに通じない「人吉弁」というか「人吉語」を用いてしまうことがある。こないだも、月に2回お喋り番組を担当しているFMやつしろのスタジオで、「ぼくはヒッケンだから、冷房かけたまま寝ると怖かとよなあ。凍え死にしそうな気がするとじゃもん」と喋ったら、若い女性アナウンサーが「え?」、首をかしげた。「あのね、凍え死にしそうな……」「あの、ヒッケンって、それは何ですか?」「うんにゃ、ヒッケンよ。臆病者のことをそぎゃん言うでしょうもね」、それで初めてアナウンサーは頷いてくれたのだが、「でも、それは八代では使わないですよ」と窘(たしな)められてしまった。彼女によれば八代地方には「ヒッケン」などいう語はまったく存在せず、臆病者のことは「ビッチョ」だそうだ。「へーえ、ビッチョか。知らんじゃった。確かに、なんとのう臆病そうな響きはあるなあ」と感心した。なんでまた「ビッチョ」と表現するのだろう。でも、謂われというか、語源は、彼女も知らなかった。
人吉でいう「ヒッケン」は、何から来ているのだろうか。これも詳らかでないが、東条操編『全国方言辞典』を見てみたら、長野県下伊那郡に「ヒッケー」という似たような語が使われており、「晴の場所や人前に出ると気おくれする性質」との説明がついている。してみれば、「引き気」とでも書き表せば良いであろうか。そして、「ヒッケン」はこれのもっと訛った言い方なのかも知れない。
彼女とわたしで一致した語がある。「けちな人のことを、人吉ではコスって言うとじゃもん」と言ったら、大いに喜んでくれたのだ。「コス」は、鹿児島県方面でも使われているはずである。彼女によれば、八代ではコスという言い方の他にケチンボとも言うそうだ。でも、それだと標準語風ではなかろうか。
方言談義はこれで終わりではなかった。
番組の終わりの方で、彼女が「肩車は人吉ではどんな言い方をなさいますか」、こう訊ねた。「ンッ、あ、何じゃったかな」、わたしは答えに窮してしまった。肩車を何と言っていたか、実は頭の中が真っ白になったわけだ。「うーむ、今、浮かんで来んなあ」「八代ではカタホイホイと言うのですが」「おろ、そりゃまた、かわゆい言い方なあ」と応じたものの、人吉での言い方がまったく浮かんでこない。情けない次第であった。それが、数日経ってから頭の中に稲妻が走り、「タカタン」というのが蘇った。そう、人吉で肩車はタカタンだった。あ、いや、待て。なんだか自信がないのだった。単なる自分の思い過ごしではいけないので、急遽人吉の知り合いに電話して聞いてみたら、大丈夫、やはりタカタンと今でも言っている。嬉しかった。
このように番組中に問われて咄嗟に答えられなかったのは、老人特有の「ド忘れ」に過ぎなかったろうか。いや、もしかして永年人吉から離れているためについつい人吉方言が薄れてしまっているためかも。いずれの場合も冴えない話であり、我ながらさびしかった。