第369回 線状降水帯の下で 

前山光則

 このたびの球磨川流域を中心とする豪雨には、度肝を抜かれてしまった。
 7月4日、午前5時頃に起きたが、えらく雨が激しく降るので驚いた。前夜、これほどひどい降雨になろうとは予測できていなかったのだ。気になったから球磨川の本流の方を見に行ってみたら、今までにない水嵩だ。ここらは河口のすぐ近くで、川幅もゆったりと3百メートル余、堤防もしっかりしている。増水しても、いつも下部のいわゆる「犬走り」と呼ばれる部分がすっかり隠れるということはない。だが、4日早朝はそれがほぼ見えなくなっており、その上の法肩(のりかた)つまり堤防てっぺんにわりと近いあたりまで濁流が迫る勢いだった。まだまだ余裕があったものの、決して油断はできぬと思った。ただ、わたしの住んでいる辺りが大丈夫なのは、堤防の堅固さもさることながら、球磨川が、渓谷部から平野部へと出た後に本流・前川・南川というふうに3つに分かれて海に注ぐからでもある。どんなに増水しても流れが3つに分散される、この水捌けの良さはとてもありがたいことだ。
 堤防の具合を見届けた後、自宅に戻って朝食の準備などしたが、7時前後から知人・友人等が次々に電話やメールをしてくれた。わたしが三角洲地帯に独りで住んでいるものだから、「今頃は、もう水に浸かっているのかも?」と心配してくれたらしい。皆さんの心配りには感謝するばかりだ。
 そして、何時頃であったか、テレビ画面に球磨川中流部のわがふるさと人吉市のライブ映像が映し出された。市街地の真ん中を球磨川が流れているのだが、そこに架かる全長270メートルの大橋、この橋の橋脚部分がまったく見えぬ、いや、それどころか欄干までもが濁流に浸かっており、これは大変、すでに市街地への氾濫が生じていたのであった。球磨川流域には今まで数限りなく水害が発生しているが、わたしなど特に印象深いのは高校時代であり、すなわち昭和38・39・40年(1963~1965)というふうに3年続いた。とりわけ昭和40年の水害がひどかったために、最大の支流川辺川にダム建設計画が浮上したのである。ただ、その時ですら濁流が大橋を呑み込んでしまうことはなかった。4日早朝は、いとも簡単に記録が塗り替えられてしまったことになる。
9時過ぎに行きつけの喫茶店に顔を出し、マスターや常連客と共に川の状況を語り合ったのだが、はじめ最上流部の市房ダムがもうじき緊急放流を始めるらしい、との情報が入ってたいへん緊迫した雰囲気となった。これは大変だ、もしそれが行われたら八代市中心部も危ないことになるのは目に見えている。しかし、間もなくまたニュースが伝わり、放流はまだ踏みとどまる、とのこと。みんな、ドッと胸を撫で下ろした。
 帰宅後、テレビを点けっぱなしにしておいた。無論、知人・友人等からの電話・メールもずっと続いた。だから、次第に更なる具体的な情報が入ってきた。市内中心部の九日町や紺屋町あたりは、以前なら建物の1階部分が被害に遭っていた。しかし、今回は2階にも水が達したそうだ。山田川や万江川、胸川といった支流では、球磨川との合流点で氾濫が生じた。支流の水が本流の勢いに押されて逆流し、周辺に溢れ出てしまうという、いわゆるバックウオーター現象である。
 ショックだったのは、青井阿蘇神社が水に浸かってしまったこと。あの神社が鎮座するあたりは球磨川まで百メートル余しか隔たっていない。しかしながら、神社前の池までは低いものの、入り口の楼門のあたりからグンと2、3メートルばかり土地が高くなっており、今まで球磨川の氾濫の際に濁流が神殿敷地内に入り込んでくることなどまずあり得なかった。ところが、4日は拝殿が床上まで水に浸ってしまったという。それどころか、神社のおよそ2百メートルほど北側のJR人吉駅・くま川鉄道人吉温泉駅にも水が押し寄せてきたのだそうで、なんということだ、と開いた口が塞がらない思いであった。
 どうも、7月4日の人吉市中心部は午前7時を過ぎたあたりから急激に水が増え、7時30分頃には街が呑み込まれてしまったようである。後で新聞報道によって知らされたが、青井阿蘇神社よりも川寄りに立地する人吉旅館では1階の天井部分にまで浸水した由である。旅館入り口に架けられた柱時計は、7時37分を指したまま止まってしまっているとのこと、おそらくその時間に濁流が時計を襲ったに違いない。
 思えば、昭和40年の大水害の際にも急激な増水が発生して被害が大きくなってしまった経緯がある。ただ、あのときは球磨川の最上流部にある水上村の市房ダムが満杯になり、それを緊急放流してしまったため下流のあちこちで水位が一気に上昇し、被害を大きくしてしまったのである。だから、いわば人為的な災害であったが、今回は違う。球磨川流域全体にわたって常識外れの凄い降雨が続いたために急激に水位が上昇し、前例のない氾濫が生じたことになる。
 数日後、人吉市在住のある同級生が「そっちは大丈夫な?」と電話してきた。「うん、おかげさんで、何てことない」と答えたのであったが、聞けば彼は自宅が床上浸水したのだという。球磨川にほど近い場所に住んでおり、かつて床下まで水が来たことがある。しかし、4日は1階が「どっぷり浸かってしもうた」と、淡々と言っていた。そのような状態でありながら、河口近くに居るわたしを気づかってくれたのである。
 そうしたふるさと人吉の状況が気になり、心配でならなかったが、雨が降り続くし、道路状況は悪いし、なかなか駆けつけてやれなかった。7月12日になって、ようやく行ってみることができた。人吉盆地へ入る道はどの方角からも通行不可能になっており、わずかに高速道路のみ健在である。だから、渋滞が発生する。そうなるのを避けたいから朝早く発って人吉の町に入ってみた。水害発生後まだ悪天候が続いていたため、後片付けは捗っていなかった。亡妻の親戚の婆ちゃんが2階に避難していたら、濁流が迫ってきたため溺れかけた。そこへラフティング会社の若者たちがボートで助けにきてくれたのだそうであったが、12日は、行ってみると誰もいなかった。家はまだ泥だらけ、駐車場の車はゴミをかぶったままであった。知り合いの焼酎醸造元では、大勢の人たちが復旧作業をしていた。そこは水の深さが3メートルに達し、酒蔵も住まいもどっぷり浸かってしまったのだという。蒸留器や貯蔵タンク、麹室(こうじむろ)までもがダメになってしまっており、これからの再建の難しさが案じられてしかたがなかった。
 市街地のあちこちで泥まみれの復旧作業が行われていて、道路は渋滞し、通行不可能のところも多かった。どこも、慰めの言葉が見つからぬくらいの惨状であった。
 熊本日日新聞の7月14日の記事を見ると、13日現在での球磨川流域を中心とする熊本県内豪雨の被害状況は、全半壊・床上浸水が6100棟、死亡者64人、行方不明6人である。なんとも悼ましい限りだ。
 とにかく、このたびの球磨川の急激な増水は、これまでの常識を越えた凄まじい豪雨によるものであり、いかに流域全体での短時間の雨の降り方が激しかったか、ということになる。テレビで、気象予報士が「線状降水帯」という聞き慣れぬ用語を使って解説していた。次々と発生する雨雲が列を成し、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過したり停滞することで作り出される、強い降水を伴う雨域のこと、なのだそうだ。この気象用語は、かつては聞いたことがなかった。最近になって用いられるようになったようだが、どうもこれから先、梅雨の時季には否応なく聞かされることになるのであろう。これは、地球温暖化現象と切り離しては考えられない。
 大水害を機に、やはり川辺川ダムを造らなくてはダメだったのだ、と発言する向きがあるのだそうだ。しかし、である。ダムを造れば済むというような、そんな安易な問題なのであろうか? 確かに、先の昭和40年の大水害の際には球磨川最大の支流である川辺川が荒れたため、それが下流にも多大な影響を及ぼしたのでダム問題が頭をもたげた。しかし、今度の場合、川辺川の方にも被害が出ているものの、さほど目立ってはいないというのが実情である。なんといっても、球磨川流域全体が線状降水帯の下で物凄い降雨にさらされ続けた。そして、日本列島内の他の地域でも似たようなかたちでの水害が発生したのは、すでに詳しく報じられている通りである。こうしたことから目を離さずに、これからの治水計画を描けるわけがない。
 地球温暖化現象が進む中、わたしたちはこれから川とのつきあい方を根本的に考え直さなくてはならぬ。今、ひしひしとそう思う。

 
 

▲新萩原橋付近の球磨川 八代市渡町。球磨川が本流と前川とに分かれる地点にあたる。濁流は橋の主桁部分のすぐ下にまで迫っていた(7月4日午前9時過ぎ撮影)。

 
 
 

▲天狗橋 人吉市中神町。橋の上にゴミがひっかかっており、濁流が橋を越えてしまったことが分かる。そして、画面ではよく分からないが、対岸(左岸)近くの方は橋が流失してしまっている(7月12日午前8時過ぎに撮影)。

 
 
 

▲全壊した民家 人吉市下薩摩瀬町。画面左手、二階建ての家の真裏に球磨川の堤防があるので、このあたりも4日は朝の7時30分頃に浸水が始まったと考えられる。まだ瓦礫がいっぱいであった(7月12日午前8時半頃撮影)。

 

 

▲西瀬(にしぜ)橋 人吉市相良町。全長174メートル。橋の一部が流失してしまった。人気アニメ「夏目友人帳」のモデルとなった場所だから、住民のみならずアニメのファンも悲しんでいるだろう(7月12日午前8時40分頃撮影)。