前山光則
高群逸枝の『娘巡礼記』を読んだおかげで、もう一つひょんな発見があった。
この岩波文庫版『娘巡礼記』の校注作業を担当した堀場清子氏は、巻末で「あとがき」を書いている。その中で、『娘巡礼記』の他に高群には文語体で綴られた「巡礼行」という紀行文もあり、その文章の美しさが「忘れがたい」と記している。逸枝は、幼い頃から父母の薫陶を受けて古典に親しんだ。だから、夫の橋本憲三が「彼女は、とかく文語調が出る」と批判的に評したほどに文語体は身に馴染んでいたようだ。この点について、堀場氏は、「それは矯正すべき〝欠点〟だったのかも知れないが、表現力において、口語体よりも文語体の方が優れているように感じるときがある」と評価する。
確かに、『娘巡礼記』が口語体で書かれたのに対して、その4年後の大正11年(1922)に発表された「巡礼行」は、同じ四国への旅を書いたものでありながらガラリと変わって文語体である。堀場氏は、その冒頭部分を引用している。
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火の国の火の山に来て見わたせば
わが古里は花模様かな
杳(よう)として人は住みてむ。わが身独りは、森羅万象を踏み破りて、夕日照る豊後の国に向かう。長き谷に添い、陰多き丘と凹地とを見渡すところに、中井田という村 あり。信心ふかき老鴬(ろうおう)ありてわれに従う。
これは、つまり、逸枝は大正7年(1918)6月4日から四国巡礼をすべく熊本を発つのだが、旅立って間もなく大分県大野郡東大野村(現在、東大野市)在住の伊藤宮次という信心深い老人と出会って、一緒に四国へ向かう、そのことを記した箇所である。堀場氏は「なかでも冒頭の短歌に、私は心をひかれる」と述べて、「この歌の種子が、彼女の内に宿った場所は、おそらく巡礼中の立野(たての)であったろう」、こう推測する。立野は、熊本から発して阿蘇の方へ向かえば外輪山の入口部分に位置するが、逸枝は往路にも復路にもその名を記しているのである。
確かに、立野あたりからふり返れば熊本方面の平野部がかなり広々と眺められるから、「わが古里は花模様かな」と詠い上げたのだったろう。そのようにも印象的であった立野の風景、しかし右の短歌は、旅をしつつ書いた『娘巡礼記』の中にはまだ現れない。堀場氏によれば、この歌の初出はそれから3年後、「九州日日新聞」大正10年(1921)8月26日の紙面においてであった。これに「八代非歌人社 夏季短歌会」の記事が載っており、その中にこの「火の国の……」が見られる、というのである。つまり、「この時期、八代に近い弥次(やつぎ)海岸にいた逸枝・憲三夫妻も出席した」、その席で出詠されたことになる。エッ、そんならば「火の国の……」は自分が住んでいるこの八代で発表されたのか、と、ちょっと驚いてしまった。
高群逸枝は、四国巡礼を終えた翌年つまり大正8年(1919)4月に橋本憲三と婚約し、後にこの日を結婚記念日とする。同年7月末には憲三の勤めていた熊本県球磨郡山江村の城内小学校を訪れて、最初の同居生活を始めるのであるが、4ヶ月後には払川(熊本県美里町)の自分の家に帰ってしまう。そして、翌大正9年8月末には東京へ出て、憲三もまた追いかけてきて一緒に暮らすが、10年(1921)の6月末には都落ちする。そのように分かれたり、また一緒に生活したり、さてまた都落ちしたりして、慌ただしい。詳しいことにはここでは触れずにおくが、互いの信頼や生活方針が確かなものになるにはそれだけの揺れ動きが必要だったのであろう。東京から帰って来た2人は、熊本県八代郡金剛村弥次(現在、八代市鼠蔵町)に仮住まいし、翌11年3月までをそこで過ごした後、再び上京する。そして、逸枝は弥次にいる間に第三詩集『美想曲』、長編詩『朽ちたる城の姫』を書き上げた。ここは球磨川河口にあり、江戸時代末期までは大鼠蔵島(おおそぞうじま)という名のつく島であった。干拓によって、陸地化した。当時も今も漁師集落である。新聞記事の載ったのが大正10年8月26日であるならば、間違いなくその「八代非歌人社 夏季短歌会」は2人が弥次で暮らしている頃に行われたことになる。
そこで、熊本市の県立図書館に出かけて行って「九州日日新聞」大正10年(1921)8月26日を閲覧させてもらったところ、いや、確かに記事が載っていた。それによると、「八月二十二日午後七時より八代町正教寺に於て八代非歌人社夏季短歌會を催した。出席者三十八名大盛会裡に十二時解散した」とあり、会で披露された作品が1人1首ずつ載っている。よく数えてみると44人44首である。これは、出席せぬが作品の提出だけはした、という人もあったのか知れない。その中で、橋本憲三は17番目、高群逸枝の歌はその次に並ぶかたちで載っている。
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病む妻を静かにおきて心虚し夕べの小家月未だ出でず 橋本憲三
火の國の火の山に來て見わたせばわが古里は花模様かな 高群逸枝
当時、橋本憲三は25歳、高群逸枝は28歳だった。憲三は後に東京で平凡社に入社し、敏腕の編集者となるが、もともと文芸には通じていた。小説も書いていたから、このように妻の健康状態を案じて歌を詠むのも素養があり、わりと器用にできたのだったろう。ちなみに逸枝は弥次に来て程なく妊ったが、再上京してから流産してしまっている。
そして、逸枝は、「火の國の……」を出詠したのである。「火の國の火の山に來て」との言い方に、阿蘇の阿蘇らしさが捉えられている。そのように「火」のイメージが強い阿蘇、そこからふるさとを見わたした時、花盛りである。「花」とあるので桜を思い浮かべたくなるが、大正7年の旅の時はすでに7月であったから、ここでは色んな種類の花々といったほどの意味合いで受け止めておこう。ともあれ、阿蘇とふるさとの様相が、そのイメージの違いが表現されている。逸枝は、自身の3年前の巡礼体験の中で最も忘れがたい風景を、このように鮮やかにうたい上げたわけである。
「八代非歌人社」という短歌集団について、わたしには予備知識がない。ただ、歌を詠む人たちでありながら、「非歌人」と斜めに構えている。従来の伝統的な歌の在り方に対して自分らはもっと違った方向を目指す、とでも言いたかったのだろうか。なんとなく、大正モダニズムの気負いが匂ってくるような名乗り方である。
短歌会の会場となった正教寺(しょうきょうじ)は、八代市本町三丁目にある浄土真宗の古刹だ。わたしの住む球磨川三角洲からすれば川向こう、約1.5キロの隔たりしかなく、歩いて橋を渡っても20分とはかからぬ近い場所にある。橋本憲三・高群逸枝夫妻が仮住まいした鼠蔵(そぞう)町の弥次も、車で5、6分、球磨川河口の漁師集落だ。距離にして、わが家からちょうど4キロ。短歌会が行われた寺にしても、2人が居たところについても、なんだかとても身近なものとして感じられる。
正教寺は単に古刹というだけではない。第10世住職・文暁(ぶんぎょう)は、成人する前頃まで京都で暮らした後に八代に来たようだが、俳人として知られた。俳諧をたしなみつつ松尾芭蕉の臨終記『花屋日記』を書いており、これは名作だ。かつてこの『花屋日記』は岩波文庫に入っていた。正岡子規や芥川龍之介らに影響を与え、特に芥川は小説「枯野抄」を執筆する際には『花屋日記』を土台として創作しているのである。さらに、寛政4年(1792)の暮にはまだ30歳台直前だった小林一茶がこの文暁を慕って訪れ、約3ヶ月の間正教寺に逗留している。当然、正月をも寺で迎えているので、
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君が代や旅にしあれど笥(け)の雑煮
と詠んでいる。現在の住職・藁井信恒氏に教えてもらったのだが、他にも「畑打がやけ石積める夕べかな」等、句を遺したり著述も行なったのだそうだ。そのような由緒を持つ正教寺である。近代に入ってからも短歌会が行われて当然の、文化の香り高い寺だ。
参考までに、その「八代非歌人社 夏季短歌会」には他にどのような作品が出ているかと言えば、いくつか挙げてみると、
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有明海夕もやこめて向つ山温泉岳は夢に似てみゆ 清原白花
この國の訛り語りする山人と別れいゆけば山路さびしも 村田青陵
街ゆけばはろばろ野路をゆきゆけばいみじく生命を感ずる日なり 服部藤三郎
村の子が群れて口口に乞食奴と珍らしがつて私が貧しい 三上竹治
夜もなかの川原に月を待ちゐつつ投ぐる小石はつめたかりけり 瀧本夕虹
細々と小雨降る夜は寂しかり遠く別れし友に文書く 藁井松繪
あいみてはまたはかなくも別れゆく山の温泉のあはきかなしみ 清水淨子
1首目にある「温泉岳」は、雲仙岳のことだ。2首目・3首目・5首目は、単なる自然詠ではない、作者自身の感慨や生活感の滲んだ詠み方である。そして4首目、この作者はどうも乞食として暮らしていたか、あるいはそう言われてもしかたないような貧困の身の上なのか、あるいは放浪の旅をする人だったろうか。とても気になってしまう歌だ。5首目の作者は「夕虹」と名乗っているが、後に「悠雅」つまり瀧本悠雅の名で活躍した人である。6首目の作者・藁井松繪は、正教寺の第16世住職・藁井雨堂の娘さんだそうだ。ちなみに、父親の雨堂は漢詩に優れた人で、多数の著書もある。さらに7首目、これは山の温泉場での男女の出会いと別れとが詠われており、かなり艶めかしい題材だ。ともあれ、こうした作品、それぞれに味わい深いものがある。だから、「八代非歌人社 夏季短歌会」に出詠された作品は一定のレベルに達しているのではなかろうか。
実は、12年ほど前から八代市内のご婦人たちが集う読書会の講師を務めてきた。毎月1回、例会が行われてきたが、今年は春先から新型コロナが流行ってきたために休止状態となっていた。近々ようやく再開される運びとなったので、ちょうど良い。前回の『娘巡礼記』で高群逸枝が何気なくワマカシの「尾藤金左」の名を文中に使っていることや、今回触れた正教寺での短歌発表のことについて、会員の皆さんに語って聞かせようと思う。そして、そのうち高群逸枝の著作もテキストとして扱うつもりだ。わずか8ヶ月余であったとはいえ、橋本憲三・高群逸枝の両人はわが八代に滞在したのである。せっかくだから、読んでみる価値があるはずだ。