第379回  津軽のことばで書かれた詩

前山光則
 
 昨年暮れから今年の正月にかけて巖浩(いわお・ひろし)・著『有題無題』(弦書房)を読んだが、これはたいへん面白かった。
 かつて「日本読書新聞」という週刊の新聞が存在した。巻末の「編集後記」によれば、創刊は昭和12年(1937)3月1日で、終刊したのは昭和59年(1984)12月24日だそうだ。いつも書店の店先に置かれて、本好きの人たちへ向けて発信されていた。新刊本の紹介・書評が主であったが、それだけでなく社会の動きを論評する記事も載っていたので、中身が充実していた。わたしなど昭和40年代に東京で学生生活をしていた頃、特に愛読した。この『有題無題』は、その「日本読書新聞」の昭和33年(1958)7月から38年(1963)12月まで掲載されたコラムが収録されている由である。著者の故・巖浩氏はその当時同紙の編集長を務めていたそうで、だから編集スタッフを代表するかたちで第一面最下段のコラム欄「有題無題」を毎号執筆していたことになる。
 昭和33年から38年までの時期というなら、わたしなどまだ熊本県の田舎町の小学5年から高校1年にかけての頃であり、難しいことなど分からぬ少年だった。しかし、本書に出てくる60年安保問題で東京の国会周辺が大いに荒れて、機動隊とデモ隊との衝突によって大学生の樺美智子(かんば・みちこ)さんが亡くなったことなどをニュースで知らされていた。三池争議や下筌ダム問題もコラムに登場するが、これなど九州内のことなので身近に感じていた。三池争議の際には、わたしの父なども労働組合側の支援に行ったから、臨時列車に乗り込んで出発するのを人吉駅で見送ったものであった。また、「蜂の巣城」を築いてダム反対運動を闘った室原知幸さんは、子どもたちの間で英雄みたいなものであった。だから、この本を読んでいると当時のあれやこれやが具体的に甦ってきて、懐かしいどころではない、あの時代の空気の中に久しぶりに放り込まれたような感じだ。一つ一つの話題に触れて胸がざわついたり、喜んだり、時には哀しくなってしまうのだった。
 だから、この本の感想を綴り始めたら切りもないこととなろう。
 そこで、たった一つだけに絞ってみるが、昭和38年(1963)11月4日のコラムで太宰治や国分一太郎、無着成恭、石坂洋次郎といった人たちをひきあいにして東北の方言のことが話題にされている。方言がよその地方の人間に通じにくいことや滑稽だと嗤われてしまう話や、しかしながら方言には味わいがあることやらが出てきて、最後に高木恭造の詩が紹介されており、これはわたしなど浮かれたいほど嬉しかった。巖氏は、こう記している。

 けれども、その津軽言葉の美しさをぎりぎりと結晶させたものに、医師・詩人高木恭 造氏が青春放浪の時期にうたった『まるめろ』という詩集があることも記憶してよい。 『津軽』にその詩篇が多く収録されている。「朝(アサマ)も昼(スルマ)も たンだ 濃霧(ガス)ばりかがて、晩(バゲ)ネなれば沖で亡者(モンジャ)泣いでセ」……

 なるほど、詩・文・写真集『津軽』という本には、当時売れっ子作家であった石坂洋次郎の文のみならず、高木恭造のようなマイナーな詩人の作品も併載されていたのだな、ということがこれで分かる。ただ、コラム欄はスペースの制約がきついものだから、せっかくの味わい深い詩篇がほんの少ししか引用されていない。これは実に残念でならぬ。そこで、昭和48年(1973)12月に青森の津軽書房から出された新装版『方言詩集まるめろ』から引いてみるが、この詩の全体は次の通りである。

  陽(シ)コあだネ村
    ――津軽半島袰月(ほろづき)村で

 この村サ一度(イヅド)だて
 陽(シ)コあだたごとあるガジャ

 家(エ)の土台(ドデ)コアみんな潮虫(スオムシ)ネ噛(カ)れでまてナ
 後(ウスロ)ア塞(フサ)がた高(タ)ゲ山ネかて潰(ツブ)されで海サのめくるえン たでバナ
 見ナガ
 あの向(ムゲ)の陽(シ)コあだてる松前(マヅメ)の山コ
 あの綺麗(キレ)だだ光(シカリ)コア一度(イヅド)だて
俺等(オランド)の村サあだたごとアあるガジャ
 みんな貧ボ臭せくてナ
 生臭せ体コしてナ
 若者等(ワケモノンド)アみんな他処(ホガ)サ逃げでまて
 頭(アダマ)サ若布(ワガメ)コ生(オ)えだえンた爺媼(ジコババ)ばりウヂャウヂ ャてナ
 ああ あの沖(オギ)バ跳(ハネ)る海豚(エルガ)だえンた悴等(ヘガレンド)ア
 何処(ド)サ行(エ)たやだバ
 路傍(ケドバダ)ネ捨(ナゲ)られでらのアみんな昔(ムガシ)の貝殻(ケカラ)だネ
 魚(サガナ)の骨(トゲ)コア腐たて一本(エツポ)の樹コネだてなるやだナ
 朝(アサマ)も昼(スルマ)もたンだ濃霧(ガス)ばりかがて
 晩(バゲ)ネなれば沖で亡者(モンジャ)泣いでセ

 つまり、「有題無題」に引いてあるのは「陽(シ)コあだネ村」の最後2行分だけである。これは青森県の津軽半島袰月村(ほろづきむら)、現在の今別町字袰月村を舞台にして綴られた、純然たる方言詩だ。海辺の村がいかに貧しいかが、具体的に、実際の風物や人間像だけでなく比喩もふんだんに駆使しながら、しかも純然たる津軽弁で表現されている。
 この津軽ことばを辿るのは、よその土地の人間にとってたやすいことではない。訳の分からぬ言葉ばかりで、チンプンカンプンだ。しかし、疑いようもなくそこからは雪深い津軽地方の人々の顔つきやしぐさや、喋る様子、そしてまた山や川や平野や海等までもがありありと浮上して来ないか。津軽三味線の激しいバチさばきも聞こえてくるはず。巖氏が評するように、まことに「津軽言葉の美しさをぎりぎりと結晶させたもの」なのである。
 この詩は川崎洋・編『日本方言詩集』(思潮社)にも収録されているが、実はその解説文の中で作者自身の説明が紹介されている。それによれば、

 この詩は、私が津軽半島の袰月村という漁村にね、代用教員として行ってたときのことがモチーフになっているんですよ。村の小屋で自炊しておったんだ。とね、晩になるとね、村のばあさんたちがね、出稼ぎに行ってる自分の亭主あるいは倅なんかに手紙書かせに来たもんですよ。毎晩一人ずつね、それでね、はじめはね、ばあさんの言う通り書いたもんですよ。そした らずいぶん長い手紙なんだ。ぜんぶくどき(愚痴・泣き言)ですよ。うちでどうしてるとかね、それが毎日続いたんだ。

 そうしたことが元になってできた詩なのだそうである。
 わたしなどは、昭和52年3月、たまたま東京へ所用あって出かけた際、神田古本屋街の地方小出版物流通センターで『方言詩集まるめろ』に出会った。店先で立ち読みするうち新鮮な感動を覚えたから買い求めたし、すぐにでも東北へと足を伸ばしたくなったほどである。旅費も時間の余裕もなくて諦めたが、以来、わたしの中で高木恭造の方言詩は忘れられないものとなった。
 方言で書かれた詩は、そうひんぱんに見られるものではない。というか、方言詩を試みる人はわりといるだろうが、うまくいった例が少ないのである。東北では、宮澤賢治の詩篇の中に織り込むようなかたちで見ることができる。方言だけで詩篇をまとめた形跡は、

 海だべがど おら おもたれば
 やつぱり光る山だたぢやい
 ホウ
 髪毛(かみけ) 風吹げば
 鹿(しし)踊りだぢやい

 「高原」と題されたこの詩ぐらいであろうか。青森県には高木恭造の先輩格として福士幸次郎がいたものの、注目すべき作品は示し得ていない。九州には、いた。熊本県の水俣、長いこと病床に臥しながら珠玉の詩篇を遺して逝った淵上毛錢は、水俣弁をうまく生かした人であった。とはいえ、毛錢も方言詩の数はそう多くない。であるから、高木恭造のようなまとまった仕事は希有のものと評価して良い。巖浩氏が昭和38年(1963)11月4日のコラムでこの詩人のことを話題にしているのを知り、ははあ、あの頃すでに高木恭造はちゃんと知られていたのだなあ、と、新鮮な驚きを覚えたのであった。
 この詩人は、『方言詩集まるめろ』巻末に付された著者紹介によれば明治36年(1903)、青森市に生まれている。満州医科大学を卒業後、医者となった。「現在弘前市北川端町にて眼科医院をいとなむ」とあり、医業のかたわら文芸活動も続けたようである。著書には『わが鎮魂歌』『鴉の裔』『詩人でない詩人の詩でない詩』『奉天城附近』『方言による三つの物語』等があるそうだ。ついでにインターネットのウィキペディアを覗いてみたら、はじめ代用教員や編集者をしていた時期があるものの、やがて満州医科大学に学んでからは医者となった、と記されている。そして、『方言詩集まるめろ』の初版は昭和6年(1931)には刊行されているようだ。つまり、高木恭造は28歳ですでにこのユニークな詩集をまとめ上げていたことになる。だから、青森地方在住の詩人の作品も、いつしか何らかのかたちで東京方面でも知られるようになっていたのであったろう。だから日本読書新聞のコラムにも引用されたわけである。そして、亡くなったのは昭和62年(1987)。享年84だったことになる。東北は、岩手県からはイーハトブの詩人・宮澤賢治を生んだ。そして、青森県には高木恭造がいたのだなあ。巖浩・著『有題無題』を読みながら、あらためてこのユニークな詩人に思いを馳せたのであった。
 せっかくだから、『方言詩集まるめろ』の中でわたし自身が最も惹かれている作品を挙げておきたい。

   冬の月

 嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば
 まんどろだお月様だ
 吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで
 何処(ド)サ行(エ)ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ
   ――ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ
     憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ
     そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのアドしたごとだバ
 あゝ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ過ぎでしまれば
 まんどろだお月様だネ

 夫婦喧嘩した後、夫の方が家の外へ出て頭を冷やしている、という設定だ。俺ア、なんでまたあんなに女房を憎んだのかなあ。しかし、憎い時には、可愛がるときよりも本気で憎くなるんだもんなあ。そして、今こうして外へ出てみると、女房のことがまたかわいく思えてしかたないのは、どうしたことだろう。さっきの喧嘩は、吹雪みたいなもんだった気がする。気持ちの高ぶりが収まって、今こんなふうに夜空を見上げてみたが、ああ、なんとまあお月様が煌煌と光っていることよなあ……、といったような、夫の内省。分かる、分かるよ、と言いたい。夫婦の情愛がこうして標準語などでなく純然たる方言で綴られていると、人間って実に面白いもんだ、との思いがこみ上げてこないだろうか。
 ついでに言えば、実はわたしの持っている『方言詩集まるめろ』には作者本人の朗読を収めたソノシート(もうこのようなものは見かけない、懐かしい小型簡易レコード盤である)が付録として挟まれている。何度聴いてもまことに味わい深い。

▲弘前城からの眺め 平成25年(2012)の10月に、念願の秋田・青森方面の旅ができた。その時の写真。遠方に岩木山が見える。