第380回 「おらア、三太だ」の思い出

前山光則
 
 あるところから、今までラジオ放送にどう親しんできたか喋ってくれ、とのインタビューを受けた。それで、幼い頃、ラジオで連続ドラマや大相撲放送を聴いて愉しんだ、年をとってからは運転中にカーラジオを聴くのは愉しい、眠れぬ夜には寝床で深夜放送に聴き入る、等々、また、この10数年やつしろFM放送でお喋り番組のコメンテーターを務めているから、スタジオでの面白い話や失敗談も喋らせてもらった。
 話しを聞いてくれたのはわたしよりも一回り年下の男性だったが、RKK熊本放送のラジオ番組で昭和30年代にばってん荒川たちの肥後にわかが人気だったなあ、とわたしが懐かしんだところ、彼はちゃんと知っていた。まだあの名優が若かった頃の話だ。20歳台であったろうに、ばってん荒川はちゃんとオヨネ婆さん役を務めていた。懐かしいですなあ、とお互い大いに盛り上がった。しかし、わたしが、小さい頃にNHKラジオで「三太(さんた)物語」という連続ドラマが流れていたことを言ってみたところ、これには彼はさほど反応しなかった。ああ、やはり世代が違うのだなあ、と気づかされた。
 「三太物語」というのは、童話作家・青木茂(あおき・しげる)の代表作『小説三太物語』が原作である。舞台は、「道志川(どうしがわ)」という川の流れる村だ。これは、『小説三太物語』(昭和26年、光文社刊)の「あとがき」によれば、

  「小説三太物語」に取材した道志川とは、中央線与瀬駅に近い相模湖より、二十分の バスにて達する清流であって、ここよりさかのぼることおよそ二十キロにして山梨県道 志に接する青根村に至る。この辺一帯、シカ、イノシシ、カモシカ、キツネ、タヌキ、 クマなぞ、三太の友の巣窟(そうくつ)となっている。

 こういう山深い村である。ちなみに、道志川は神奈川県相模原市緑区までを流れて相模川へと合流する一級河川なのだそうだ。
 さて、ラジオドラマ「三太物語」であるが、主人公の三太少年はとてもとてもやんちゃである。小学校で授業を受けてもまともに先生の話を聞かないし、それどころか先生が一所懸命勉強を教えてくれている時に紙飛行機を飛ばす、ヤマブキでこさえた鉄砲で生徒同士お互い紙弾の撃ち合いっこをする、などといったふうで、ちっとも落ち着きがない。だからいつも先生たちには叱られっぱなし。ところが、新学期になってやって来た新しい女先生は違った。花荻(はなおぎ)先生といって、専門は「唱歌」だそうだ。三太たちに対してとても親切で、生徒たちが頭にシラミがわいて痒くて困っていれば、自分で薬を買ってきて退治してくれる。三太たちがヤマブキ鉄砲で撃ち合いをやっていると、寄って来て、「あら、おもしろい鉄砲ね」と褒めてくれた。そして、「こんど、みんなでそれを作って、お休み時間に撃ち合いしましょうね」などと勧めてくれるので、こうなれば三太たちはかえってやんちゃがし辛くなるのだった、……こういうふうに、花荻先生と三太少年たちの間で愉快な愉しい学校生活が展開する、というドラマである。なんでも、この花荻先生という人がとても魅力的なものだから、ラジオ放送が続くうちには全国で小学校教師になりたいと希望する者たちがえらく増えたほどなのだそうである。
 子どもの頃は、原作者が誰であるかとかドラマの舞台がどこであるか等の詳しいことは知らなかった。ただただラジオで聴いていて、愉快そうな学校生活が羨ましく感じられた。山の中で少年らが獣たちと友達みたいに遊んだり、川に入って魚取りに興じたりする。なんだか、ドラマの舞台になっている谷間へ行ってみたくもなるのだった。しかし、どこか遠い遠いところなのだろう、と、諦めていた。
 「三太物語」が始まる時は、決まって最初に「おらア、三太だ」と威勢の良い声が発せられる。そして、

 トントン峠の山の子は♪
 寄って来い、来い♪
 
 ここから先の詳しい歌詞を覚えていないのが口惜しい。とにかく、ひとしきり歌声が流れるのであった。最後は、

 おーら、おらおら、おらア三太だ♪
 山の子だ♪

 と、ここのところははっきり覚えている。とにかくもう、この最初のテーマソングが流れるそれだけで、ラジオの前のわたしはウキウキ気分だった。いやあ、ほんとにあの「三太物語」は懐かしい。
 しかし、である。
 ラジオ放送についてのインタビューを受けてしばらく経ってから、落ち着かなくなった。それというのも、実はわたしはラジオドラマ「三太物語」については7年前にこの連載コラム「本のある生活」第195回「記憶の違い」で話題にしたことがある。久しぶりにそれを読み返してみたところ、「三太物語」がラジオで放送されたのは「昭和25年(1950)」と説明している。これは『日本近代文学大事典』(講談社)に「二五年の連続ラジオ・ドラマ『三太物語』(筒井敬介脚色、NHK)およびその映画化によって全国的に知名度を高めた」とあるのを確認した上で記した。だが、今度、ふと不安になったのだ。あのラジオ放送が昭和25年のことであるならば、エッ、俺はまだ3歳になるかならないかの本当に幼い子どもだったことになるじゃないか。どうだろう、そのような幼い時期にドラマの内容だとか主題歌が印象深く記憶に残ってくれるものであろうか……、なんだか、我ながら自信なくなってくるなあ。
 不安が募るのでインターネットのウィキペディアも覗いてみたら、あったあった。それによれば、「三太物語」のラジオ放送の初回が昭和25年1月29日だったそうである。好評により何度も断続的に放送が続いて、最終回は7年後の昭和32年(1957)8月15日だった由。いや、そうであればわたしなど小学4年生だから、もう印象的な経験については記憶もかなり残っているからなあ、と、やっと安心することができた。この「三太物語」が後に映画化されたとか、あるいはテレビにもなったことがあるらしいが、そういうことについては全く覚えがない。ただ、高校生になってから読書というものに目覚めたわたしは青木茂の原作『三太物語』をはじめて読んでみた。その時は、ラジオドラマの感動が改めて沸々と甦ってきた。
 ああ、ああ、昔のことを辿るのも楽でないなあ、と、溜め息が出てしまった。
 今から思うのだが、わたしが「三太物語」に惹かれたのは山奥の生活というものを知らなかったからではなかったろうか。わたしは熊本県人吉市の中心部で育った。人吉は盆地の中心部に位置しており、まったくの田舎町であるが、しかし中心部で育てば、そこはやはり山村でも農村でもなかった。なんといってもガヤガヤ賑やかな町場であったから、農山村の暮らしなど知らぬまま育った。ただ、父も母も近隣の村の出身だったから、時折り親に連れられて親戚へ遊びに行くことがあった。そんな折りには、かろうじて田舎の暮らしに触れてはいた。しかし、そこらはまだ山深いところではない、町場に近い農村だった。
 いや、一軒だけ、人吉の南の方の山奥に親戚がいた。そこは宮崎県えびの市との県境・加久藤(かくとう)峠である。祖母の従妹にあたる婆さんたち一家が住んでいた。かねては田畑を耕したり、山の木を切り出したりの生活だ。冬場には、婆さんの息子が山に入って猪猟をしていた。今でも印象深く思い出すのだが、遊びに行ったある時のこと、大人たちは家の中で宴会していたから自分は家の外の道ばたで遊んでいた。そうしたら、付近の男の子たちが通りがかりにわたしを見つけ、喧嘩をしかけてきた。相手は数人いたので勝ち目がなく、馬小屋がたまたま空っぽ状態になっていたのでそこに逃げ込んだ。だが、彼らは馬小屋に入って来ようとするではないか。万事休す。口惜しいから、何とか抵抗したくて馬小屋の中を見まわしたら、馬糞がカラカラに乾いた状態でたくさん落ちていた。で、それを拾って「チクショー、チクショー!」とわめきながら次から次へと連中に投げつけてやったら、さすがに彼らも退散していった。馬糞って、乾くと結構硬くて、石の代わりに使えるのだった。しかも、石と違って相手にぶつけても怪我させなくて済む。ざまあみろ、と、かねては弱虫だったわたしだが、その時ばかりは得意であった。
 今から思うと、あの時わたしを見つけて喧嘩をしかけてきた連中は、誰もがラジオの三太少年のような自然児であったと言えるのではなかろうか。あの後仲直りして少しは一緒に遊んだこともあるが、もっと親密につきあいをすればよかったなあ、と、今にして悔やまれる。そう、わたしは三太的な生活に羨望を抱いていたはずなのであった。
 ついでにいえば、あの連載コラム第195回「記憶の違い」の中で友人が話題にしていた電信工夫を描いたラジオドラマ、あれについては、その後どこからも反応が来なかったのだが、詳しいことを誰かご存じではないだろうか。教えてほしいものである。
 
 
 

▲今、あちこちで梅の花盛りだ。春がやって来たのだなあ、と思う。