第383回 少年の自分に出くわした

前山光則(4月6日記)
 
 熊本市に住む1歳上のN女さんから、先日、電話がかかってきた。
「あのねえ、家の中の雑多なものを整理してたら、小学校の時の文集が出てきたのよね。見てたら、あなたの作文が載ってた」
「エッ、ぼくの?」
「そう。人吉東小学校4年生。あたしは5年生だったのよね」
「なんで、また、そんなものが?」
「多分、うちの母が保存してくれてたのではないかなあ」
 N女さんのお母さんはだいぶん前に亡くなられたので、確かめる術がない。
「小学校時代の作文なんか、まったく覚えておらんなあ」
「かわいい作文よ。潮干狩りのことが書いてある」
「潮干狩り……、ああ、小学4年の時には、確か、宇土半島の、あれは長浜に行ったんではなかったかなあ」
「ほら、覚えているんでしょ」
 N女さんは嬉しそうな声だ。そして、自分ではもう要らないので、あなたに譲るから保存しなさいよ、と勧めてくれた。断る理由も見つからぬから、ありがたく御厚意に応じることとした。
 何日かしてそれが送られてきた。全部で52ページの冊子である。昭和32年10月発行の「あさぎり」創刊号、「東校なかよし新聞部編」と刷り込まれている。熊本県人吉市立東小学校には、あの頃、「東校なかよし新聞部」というものがあって、そして新聞ならぬ文集が発行されたのか。ページをめくると、確かにわたしの作文が載せてある。「四年 前山光則」の、タイトルは「しおひがり」である。短いものであるから全文を引いてみるが、次の通りである。  

  ぼくたちは今日は、しおひがりに行きました。行くところは長浜というところです。 八代まで汽車で八代からバスで行きました。ついてからごはんをたべましたが、あんま りうまくなかったので、二つにぎりめしを食べた。貝をとる用意をして外に出た。いよ いよ貝をほるのだ。ちゅういが出て貝をほった。いる、いる。一ほりすると四つはとれ る。八代なら一ほりする、あっ、がちっという音がした。とれたぞ。あっ、石だった、 と言うのだが、長浜は一ほりすると五つはとれる。それが大きいのだ。
  ぼくは潮のあるところまで行った。
  八組の鹿田君が「おーい、こけが一番おっぞ。うば貝の」と言ったので、そこでほっ て見たら、一ほりして九つは取れた。長さが五十センチで横が三十センチぐらいのふく ろにいっぱいはいった。そして旅館に帰って、はらがへっていたので、にぎりめしをた べたら、たいへんうまかった。帰るときは、始めにバスにのって帰った。バスにのって から、みんなは、まいくで歌った。やがて八代について、八代見物をして駅にいったら、 うちのお父さんが来ていたのでうれしかった。バスからおりてすぐお父さんの所へ行っ た。貝がおもかったので汽車にのるまでもっといてもらった。佐々木君が来て「前山君、 こん、おじさんはどこの人ね」と、言ったのでぼくは、わらっていた。汽車が走りだし て、まだお父さんがこなかったから話していたら、佐々木くんが、「あら、こんおじさ んの、また来とんなっと」と、言ったのでぼくは「うちの父ちゃんたい」と、いったら、 びっくりしていた。
  人吉駅についてうちにかえったら、大きくて、そこのふかいせんめんきにいれて見た ら、二つにはいった。

 小学校4年生の時に学校行事で宇土半島の方に潮干狩りに連れて行かれたことは、覚えている。「長浜」とあるのは、宇土市長浜町。現在でも潮干狩りの名所として知られており、遠浅の、実に美しい海岸である。
 しかし、昼ご飯を食べる時、「あんまりうまくなかったので、二つにぎりめしを食べた」とあるのは、おかずが貧弱で不満だったのだろうか。わが家は弁当のおかずといえば漬物が主で、卵焼きなどというものはお目にかかれなかった。それで、おかずに手をつけるのが嫌でにぎりめしだけ頬張ったのであろうか。そういえば、わが家の飯はいつも麦がたくさん混じっていたなあ。ただ、遠足や運動会等の特別な日には米だけの飯だった。
 さて、それで、干潟での貝掘りが終わった後では腹が減ったというので「にぎりめしをたべたら、たいへんうまかった」、ほれ、ここでもおかずのことは触れていない。もしかして、まだ食糧難だった当時のことだからおかず無しの弁当だったのか。それはともかく、後で食べたおにぎりが「うまかった」のは、きっと腹が減っていたので有難味があったのだったろう。食い意地が張っているのは、幼い頃も今も変わらないわけだ、と、我ながらおかしかった。N女さんが「かわいい作文よ」と冷やかすのは、こんなところを見てとってのことではないだろうか。
 貝のとれ具合だが、八代ではなかなか貝がいないのに長浜では一掘りで4個も5個も見つかるなどと記しており、比較のしかたが具体的である。これは、まだ幼稚園生の頃、4年生の兄たちの潮干狩りが八代市の白島海岸で行われた際に、家族もついて行ってよろしいというので父がわたしを連れていってくれた、その時のことを思い出しているのであろう。あの時は初めて海を見たので、潮の満ち干が怖くて恐ろしくて泣きじゃくった。だが、貝はよく採れた、というふうに記憶しているので、この4年生の自分の記述はちょっと意外である。
 それはそれとして、である。鹿田君から「おーい、こけが一番おっぞ。うば貝の」と声かけられてうば貝を掘りまくっているのは、愚かである。うば貝などは「馬鹿貝」と称されるほどであり、砂抜きが大変面倒な代物だ。それを知らずにありがたがって「長さが五十センチで横が三十センチぐらいのふくろにいっぱいはいった」と自慢げに書いているのは、無邪気さを通り越してバカ丸出しである。ちなみに永井重利君の作文「潮干狩」が載っているので読んでみたら、彼は馬刀貝を探し当てている。そして、永井君は自分のまわりのことも忘れずに「高沢君が12,3センチぐらいの大きな帆立貝を採った、」と記している。彼は勉強がよくできて行いも良く、賢い子であった。海から遠く離れた人吉盆地育ちであっても、気が利いた子はこのように有益な潮干狩りをしたのである。ちなみに、この永井君の文によれば、長浜への潮干狩り遠足は昭和32年(1957)9月20日だったそうだ。
 それにしても、自分としては、愚直にうば貝をたくさん持ち帰ったなどとはちっとも覚えていない。
 だが、最後に父が登場する場面、これだけはピカーッと記憶が甦った。そう、あの日、確かに父はわざわざ人吉から出てきて、八代駅で待っていてくれたのだ。それは、どうしたわけだったろう。何かたまたま用事が生じて八代まで出てきていたのであったろうか。父は、日本通運の作業員としていつも人吉駅構内で貨物の積み下ろし作業に従事していた。汽車に乗ろうと思えば、すぐに可能な場所にいたのではあった。
 そして、「佐々木君」のことは懐かしい。彼は、親がダム工事の関係者であった。あの頃、球磨川には、人吉よりも下流にはすでに荒瀬ダムと瀬戸石ダムが完成していた。しかし、最上流部の水上村にはまだ市房ダムが建設中であった。だから、何年生の時だったか、彼は転校してきて2、3年人吉に居た。やがてまたどこかへ去っていったのだが、なぜか気が合って仲良くしていた。サーカスの子は1週間か2週間ほどで、そしてダム関係者の子は数年でよそへ去って行く。仲良くしても、すぐに別れが来るのであったなあ。
 こうした具合で、N女さんの好意により久しぶりに少年の頃の自分に出会うことができた。できたけれど、今もって現実感のない感覚に包まれている。大げさかもしれないが、そう、これは本当に過去の自分であろうか、とでも訝りたいような……、実にまことに悩ましい、へんてこりんな気分である。

▲満開のハナミズキ 桜が散ってしまったが、今、近所ではハナミズキが満開だ。山間部ではもう藤が咲いているという。また、花々だけでなく、みずみずしい若葉が茂る季節になりつつある。