前山光則
コロナ禍が、少しは衰えを見せて来たろうか。6月14日にワクチン接種2回目を終えた。これからはあまり気兼ねせずにあちこち出かけられるかも知れぬ、いや、まだまだ甘い展望はできぬかも、などと自分で呟いてみるのである。
時々、自分の好きな短歌についてあれやこれや考えをめぐらせる。八代市在住の有志で発行される季刊短歌雑誌「しらぬ火」に「いい歌見つけた」と題して連載をしているので、少なくとも年に4回は短歌について取り組まなくてはならぬわけだ。
この頃では、フーッと寺山修司の短歌が頭に浮かんだ。
詩人で、歌人で、俳人で、劇作家でもあった寺山修司、この人のことはもう最近の若い人たちには馴染みが薄いかも知れない。でも、わたしたち戦後すぐの頃の生まれの世代にとっては忘れられない名である。浅川マキの唄った「かもめ」やカルメン・マキ「時には母のない子のように」等を作詞した人だ。応援歌「がんばれ長嶋ジャイアンツ」の詞もこの人だ。俳句は、
ラグビーの頬傷ほてる海見ては
方言かなし菫に語りおよぶとき
林檎の木ゆさぶりやまず逢ひたきとき
葱坊主どこをふり向きても故郷
石狩まで幌の灯赤しチェホフ忌
等々、才能のほとばしりが見られるものばかりである。競馬評論もやっていたし、自らが馬主でもあった。演劇好きな人だったら、「毛皮のマリー」「大山デブ子の犯罪」等の戯曲を書き、前衛劇団・天井桟敷を率いて活躍していたことを思い出すであろう。とにかく多才な人であった。
わたしの場合は、歌人としての寺山修司が一番印象に残っている。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき
言い負けて風の又三郎たらん希いを持てり海青き日は
大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ
新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥
こういったふうに、好きな歌はいっぱい上げることができる。しかし、一番印象に残っているのはどうしても最初に挙げた「マッチ擦る……」である。
昭和10年(1935)12月に青森県に生まれたこの人は、9歳で終戦日を迎える。父親は、終戦前にセレベス島にて亡くなっている。だから母親が一人で子を育てなければならず、生活費を稼ぐために種々の仕事についたのだそうだ。遠く九州の炭坑にまで出稼ぎしたこともあるらしい。母親が傍になかなか居てやれないので、子としてはひどく心が渇いた。「大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ」には、それが反映されているのではなかろうか。時代がまた、戦後の混乱期。この世代の人たちの胸に渦巻いた空虚感は、なかなかなものであったに違いない。煙草を吸うべくマッチを擦ると、途端に海の霧の深さが心に迫ってくる。霧の深さは、やはり自身の内面の混迷の深さでもあろう。そして、作者は「身捨つるほどの祖国はありや」と呟く。
寺山修司よりも4歳下の岸上大作に、
意志表示せまり声なき声を背にただ掌の中にマッチ擦るのみ
という秀歌があったなあ、と思い出す。これは明らかに寺山に影響されての作であるが、国学院大学の学生として昭和35年の安保騒動の真っただ中にいた岸上は、彼なりの特有の暗部を抱え込んでいたからこうした歌を詠んだのであったろう。結果的には同年12月に自死した。しかし、どうであろう。岸上は「マッチ擦る」ことでのみ寺山の後姿を追ったのではなかろうか。寺山の歌の「海に霧ふかし」、この暗さが若い岸上には本当には伝わっていなかったのかも知れない。そんな気がしてならない。
さらにまた、思うことがある。実は、わたしは東京で夜間大学の学生時代だった一時期、雪華社という小出版社に勤めたことがある。その出版社から寺山修司・編『男の詩集』という本が出ていた。これはアンソロジーであるから、ボードレールとか萩原朔太郎とかの古今東西の詩人の作品が載せてあった。淵上毛銭の「死算」という詩も収録されていた。
じつは
大きな声では云へないが
過去の長さと
未来の長さとは
同じなんだ
死んでごらん
よくわかる。
そして、寺山氏から「淵上毛銭は、熊本の水俣にいた詩人ですよ」と教えられたのである。わたしは、自分の育った熊本県にかつてこういう詩人がいたのだなあ、と、『男の詩集』で初めて知った。
また、このアンソロジーには三橋美智也や春日八郎などの流行歌の歌詞までも紹介してあった。実になかなかにユニークな一冊であったわけで、わりと売れていた。寺山氏からも、たびたび、この本を10冊とか20冊とか持ってきてくれと電話がかかってきていたから、その都度届けてやっていた。氏は、自分の著書を芝居や講演の会場で販売してくれていたのである。連絡が来る度に御自宅や芝居の会場へ持って行ったが、御茶ノ水駅のホームで待ち合わせて手渡ししたこともある。御自宅は、稽古場を兼ねていたのか、結構大きな家であった。外壁に大きな熱帯魚(のようなもの)が描かれていて、サイケデリックな彩色、やはり普通ではない、とてもユニークであった。
寺山氏は、お会いするといつもやや津軽訛りの感じられる口調で「やあ、ありがとう」と本を受け取ってくれていた。自分としては、憧れの人であったから、会ったついでに色々話を聞けばよかったなあ、と、今にして残念でならぬ。しかし、当時は、面と向かってお会いすると、なぜかただの中年男にしか見えぬのであった。必要以上の会話をしようという欲が、どうしても湧いて来ず、挨拶をし、本を渡し、帰って来るだけ。そして、それなのに自分1人で部屋に居る時は、寺山氏の書いたものをせっせと読みふけったし、電車に揺られながら寺山本に熱中することもあったのだが……、ともあれこのギャップは何だったろうか。ほんとに、今でも不思議でならない。どうしてそのようなふうであったか、自分のことが分からなくなってしまうので、それこそ「海に霧ふかし」である。
この歌は、「霧」が出てくる。先に記したように、短歌誌「しらぬ火」は年4回の発行だ。霧は秋の頃がふさわしいから、いずれ秋の号でこの歌を題材に書くならば良かろうかなあ、と、そんなことを考えている。