第391回 最初の時は

前山光則

 新型コロナウイルスの勢いが止まらない。大都会とか地方とかの区別なく感染が増えつつあり、無論、わたしの住んでいる八代の町も例外ではない。なんとも気になる毎日だ。わたし自身はコロナワクチンを6月中に接種済みなので、ひとまず慌てないで良いものの、これも効力はいつまで続くのだろう。 
 それはともかく、最近、ある知り合いとコロナ禍等についてあれやこれや談義しているうちに、なぜか話題がコロリと転じて、
「最初に癌を経験した時、あんた、どんな気持ちだった?」
 と訊ねられた。
「……そうよ、なあ……」
 こちらはすぐには答えず、しばらく考え込んだ。
 わたしにとって、癌の初体験は平成3年(1991)夏であった。喉の下あたりになんとなく違和を感じたというか、どうもほんの少し膨らんできている。唾を飲み込む時に、ちょっとだけチカッとした感触があって気になるので、八代市内の病院で調べてもらった結果、「甲状腺癌」と判明した。そこで、入院し、手術を受けたのであった。甲状腺の4分の3が切除され、以後は残った分でホルモン分泌が続いていることになる。若いうちは残った4分の1で充分に賄うことができていたが、老いてきて力がなくなったそうで、現在、足りない分はホルモン剤を毎日服用し、補っている。
 しばらくしてから、知り合いには、
「あの時は目が見えすぎる日が続いたし、耳も、聞こえすぎて、しばらくは困ったよなあ」
 と答えておいた。
 癌がわが身にできてしまっていると判って、身も世もなく怖かった。はっきり言って、最悪の場合は死なねばならぬのか、との恐怖である。そして、自分を取り巻くあらゆる風景が実に鮮明に、どこまでもハッキリと見えるようになった。自分はこんなに視力が良かったはずないのになあ、と訝しくなるくらいに何でもかんでも見えて見えてしかたがなかった。そして、耳も冴えすぎて、困った。どんな些細な物音も聞こえてしまう。ただ、大きな物音がさらに大きく耳を圧してしまうというようなことはなかった。大きな音は、それまでと同じで、普通に耳に届くだけであった。違ってきたのが、ごく小さな、ちょっとした音。すぐに耳が捉えてしまうのだ。
 癌の宣告を受けたのが6月3日だったが、それ以来、そのようにして視力や聴覚の変調状態が続いた。入院したのが翌々日で、手術を受けたのが12日。退院は6月26日であった。その頃には、死への恐怖はよほどに薄れており、聴覚も視覚もかなり普通の状態に戻っていたように記憶している。
 こうした死への恐怖や聴覚・視覚の異常な冴えようについては、大勢の人たちの前で語ったことが何度かあるし、何かの折りに文章にも書いた。自分にとって、ほんとに忘れられない思い出である。
 でも、実は、もう一つある。
 それは、生まれて初めての癌を言い渡された平成3年(1991)6月3日は、長崎県の雲仙岳で大火砕流が発生しているのである。その日の日記に、「雲仙、火砕流ついに起きて、犠牲者出てる由、人間のはかなさ」と書いている。
 色々調べてみると、雲仙岳で火砕流が発生したのは、最初は5月24日だったのだそうだ。以後、火砕流は幾度も発生するが、6月3日の午後4時8分に起きたのが人的被害の面では最もひどかった由である。死者・行方不明者43名という大惨事となった。雲仙岳のそのような不安定な状態は、いつまで続いたのだったか。自分でも、記憶がはっきりしない。しかし、少なくとも約3週間入院していた間、病院内は雲仙岳の話題で持ちきりだった。自分でも、日記に、

「テレビ、雲仙のニュース。とうとう死者が出たらしいのである。熊本市内に黒い雲が垂れ込め、灰が降ったとのこと」(6月4日)
「雲仙の火砕流、今日、今までで最大規模のものが発生した由。テレビはそのことばかり」(6月8日)
「雲仙の様子は、水無川流域以外にも土石流出たとのこと」(6月10日)
「今日、朝から快晴。雲仙岳がはっきり見えた。噴煙も、火砕流が山肌を駆け下った跡も」(6月16日)
 
 というふうに記している。わたしの入っていた病室は615号室で、つまり八代総合病院(現在、熊本総合病院)の6階であった。だから見晴らしがたいへんよろしくて、ベッドに横たわっていても部屋のカーテンさえ開けっぱなしにしておけば、景色が遠くまで広く見渡せた。八代の前面の海は不知火海(八代海)だが、その先の天草島、またまた先、有明海に面した雲仙岳までもがはっきりと眺められたのであった。
 病室にいて、その気にさえなればカーテンを開けるだけで雲仙岳が遠望できる、これは普通であればたいへん贅沢な環境に居たわけである。しかし、火山活動が活発だったあの時期、朝だろうが昼だろうが雲仙岳の噴煙や火砕流が目に入った。夜となれば、山全体は闇に沈んでしまうものの、しかし山頂のあたりからダラダラと光の帯が流れ落ちるのが見えるのであった。
 日記にも書いているように、火砕流が発生し、多くの犠牲者が出た。だから、「火砕流ついに起きて、犠牲者出てる由、人間のはかなさ」との感想は自ずと胸の内から湧いて出たものであった。自身が癌を病んで、手術を受け、病室に起き伏ししている状態で、雲仙岳の凄まじい状態が常に目に入る、……これは堪らん、やりきれんなあ、という思いがひしひしとあった。つまり、雲仙岳は、その火山活動は、人間を死へと追いやってしまう不吉なもの、と、こういうイメージであった。 だが、不思議なことに、雲仙岳をしよっちゅう遠望していて、湧いてくるのはそうした感情だけではなかったのである。ここが、自分でも不思議でならぬのだが、雲仙岳の活発な動きに胸を塞がれながら、一方で、時折り、火山というもののエネルギーに魅せられてもいた。まったく相矛盾する感情が湧くのだった。つまり、ああやって暴れている火山が、自分に向かって「生きろ、生きろ!」と呼びかけてくれているような気分になる時があったのだ。とりわけ、深夜ふと目覚めてカーテンを開ける、そして外を眺めると、赤々と光の帯が連なる。たいへん美しかったし、生命力がいっぱい漲っているように感ぜられた。そのような気分の時、雲仙岳を遠望できる病室に起き伏しできる自分を幸せだな、と思った。いわば、火山から叱咤激励されているような……、これは実に正直な気持ちであった。
 雲仙岳を遠く眺めつつ、火砕流による惨状に胸が潰れるくらいに痛ましい思いがする時もあれば、一方でその火山活動が自分への「生きろ、生きろ!」との励ましにもなっていた――まったく相矛盾する思いが、病室にいる自分の中で交互に登場していたわけだ。そして、それは実はその頃のことを思い返す場合に、今でも変わりがない。雲仙岳噴火は、死のイメージと生のイメージと、その両面でわたしの中に入れ替わり立ち替わり甦る。どちらか一方だけがいつも座を占める、ということがない。
 実に不思議なことだ、と思う。
 だから、知り合いにもそれを語ったのであったが、
「フーン……」
 微妙な反応であった。
 そして、である。考えてみれば、聴覚・視覚の異常な研ぎ澄まされ方については文章にも書いたことがあるし、喋っても来た。しかし、入院中の雲仙岳を眺めていた時の気持ちについては、なぜかちっとも他人に語ってみたことがなかったし、文章にも書いたことがなかった。
 今回が、初めてのような気がする。これもまた、なんだか、とてもへんてこりんな気持ちである。
 
 
 

▲遠くに雲仙岳 少し曇り気味の日、八代の海岸から眺めてみたら、雲仙岳はやや霞み気味に遠方に横たわっていた。手前には天草島の低い山々が連なっている。
(2021・9・1・水、撮影)