第407回 最近嬉しかったこと二つ

前山光則

 今年の夏は暑かった。いや、それは何も今年に限ったことでないものの、しかし格別だったと思う。いつも家ではなるべくクーラーに頼らぬようにするのだが、今年はむしろ積極的に利用した。そうでないと熱中症になりそうであった。
 もっとも、酷暑の夏も、嬉しいことがないわけではなかった。最近、二つあった。
 一つは、8月4日(木曜)、友人2人と共に球磨郡の相良村・五木村方面へ遊びに行った時のことである。球磨川水系で最大の支流・川辺川を遡ってみたのだった。相良村から入って行き、川沿いの道を五木村の方へ進んだ。村の中心部・頭地集落も通過して約10キロほど入ると、宮園という集落が現れる。すると、6人ほどが川べりで遊んでいた。中学生か、高校生か、男の子だけでなく女の子もいた。いや、そして1人はどうも小学生としか見えない幼い姿も確認できた。
 それで、橋の上からしばらく彼らの様子を見物させてもらったのだが、実によく川に馴染んでいるふうである。彼らはTシャツを着て、下は短パン、素足でズック靴を履いており、いたって身軽な格好だ。見ていたら、一人が、川の中に引っかかっていた大きな木切れを見つけて、それをエイ、エイ、と引きずりはじめた。すると他の者も手伝って、やがて木切れは引っかかりがなくなったので流れ始めたが、彼らはドボンと川に飛び込んだ。そして、木切れにつかまってしばらくは一緒に流れて行くのであった。木切れにつかまっていない者は、ジャブジャブと泳ぎまわる。
 彼らは、やがて飽きたのか、河原の方へ戻った。それも、木切れは流れから引っ張り上げて、河原の方へ置いた。そのうちまた木切れで遊ぶつもりなのだろうか。
 川は、実に、彼らの日常の遊び場なのだろうな、と思われた。我々は、
「おおおおーい、こんにちは!」
 と彼らに声をかけた。彼らも大きな声で挨拶を返してくれた。それで、友人の1人が身を乗り出して、
「おおおーい、あんたたちゃ、ここら付近で魚捕りはせんとね?」
 すると、彼らの内の1番体格の良い少年が、「はい、今日はただ遊びに来ただけです」
 答えてくれた。
「この辺にゃ、どぎゃんとが居るね?」
「イダや、ハヤや、アユも居ります」
「ほう、結構おるばいね」
「イダは、あまりおいしくないのですが、釣るのは面白いですね。でも、この頃、少なくなって」
「ん? なんで?」
「はい、2年前の水害の時に流されてしまったらしく、それからがあまり見かけないので」 やはりあの2年前の7月4日は、ここら付近もずいぶんと増水したのであったらしい。
「アユは?」
「アユは、漁業組合の人たちが放流するので、結構いますよ」
「ふーん、そぎゃんね。アユが多かと、そりゃあ良かたいな」
 やりとりを聞いていて、感心した。彼らは、実によく川の中の魚たちの現況を知っているのだな、と思えた。
 とにかくこのように、暑い夏の日、川原で遊ぶ子どもたちの姿を久しぶりに見かけたのだった。彼らは川辺川によく馴染んでいるふうであり、だから木切れを見つけたらTシャツ・短パン姿のまんま川へ飛び込むし、泳ぎながらしばらくは遊ぶのだ。馴れていなくてはそのような自然なふるまいはできぬのであり、その日はたまたま手ぶらで来ていたものの、別の日には釣竿やゴーグルや鉾などを持ってきて魚捕りに興じるのであろう。幼い子も1人いたが、彼などはお兄ちゃんお姉ちゃんたちのすることを直かに見ながら少しずつ川遊びが上手になっていくであろう。
 なんだか、ウキウキした気分になった。まるで自分たちの子どもの頃が、今、目の前に再現されているかのような感じだった。
「いやあ、良かなあ、ああやって川辺川を、自分たちの庭みたいにして遊んどる」
 とわたしが感心して言うと、友人は、
「うん、ばってんがなあ」
 少し不満があるようなふうだった。
「ちっとも方言を使わんよなあ、今の子は」「ん?」
「標準語でしか喋らん」
 ああ、そうか。言われてみれば、わたしも初めて気づいた。少年はとてもきれいな言葉遣いであったが、土地のことばがまるで出てこなかった。でも、川の中のことに詳しいので、この付近に住む子であるには違いない。
「うん、そうなあ、テレビで育った子たちだろうたい」
 それだけは苦笑するしかなかった。どんなに親しく大自然と交わっていても、ことば遣いに関してはすっかり方言と無縁な暮らしになってしまっているのだろうか。あるいは、見知らぬ大人から声をかけられたので、よそ行きの言葉遣いをしただけだったろうか。でも、ま、良い。現代の子どもたちだからな。下品な言葉遣いするよりはマシかもしれない。それよりも、こんなにも屈託なく川辺川に馴染んで暮らしている、そのことの方を注目してやりたいもんだ、と思うことにした。
 もう一つ、嬉しかったこと。それは、この連載第404回「久々に水俣市へ」の中で、石牟礼道子さんの作品に何度も登場する「しゅり神山」がどこにあるのか、探してみたものの分からずじまいだったことをレポートしておいた。その後、色んな人たちに問い合わせてみても反応が得られなかった。
 ところが、8月28日(日曜)、水俣市在住のシンガーソングライター柏木敏治氏が奥さん共々やってきて、水俣川で投網をして捕らえたというアユを土産としてたくさん下さった。さらに、しゅり神山について、貴重な情報をもたらしてくれたのである。
 柏木氏も、わたしから訊ねられてしゅり神山のことなど初耳だったそうだが、その後水俣の色々の人に訊ねてくれたそうだ。と、そのうち、郷土史に詳しい方に行き当たった。そして、古い地図まで見せてもらった結果、やはり石牟礼さんが『魂の秘境から』で「チッソの裏山を地元の人はしゅりがみ山と呼んでいた」と書いているのは本当のことだ、と判明したのである。それは、つまりチッソと梅戸港の間にある小高い山の、しかもチッソ側の方。柏木氏は古地図のコピーを持ってきてくれたので、見ると、そこらは水俣市汐見町に属しているのだが、「朱利神」という字名がある、これが「しゅり神」なのだ。ああ、なるほどそうか、と納得。わたしたちは梅戸港の方へ行ってみて、港周辺や裏の山やらを歩き回り、しゅり神山のことをしきりに聞いてまわったのだったが、実はそれは山の西側つまり海側斜面だけだったことになるだろう。山はもう少し向こう側つまり東側のチッソ工場敷地内の方へも続いており、そこら一帯こそが「朱利神」すなわち石牟礼作品では「しゅり神山」なのである。
「そんならば、この朱利神という字名のところに行ってみたいもんだなあ」
 とわたしが言ったら、柏木氏は残念そうな顔で、
「いや、それが、この朱利神へは、チッソの敷地内になるものだから、入れんのですよ」
「エーッ、まったく立ち入りできんわけ?」「はい、残念ながら」 
 なーるほど、あの山の半分は長らくチッソの所有になってしまっているわけか。チッソが水俣へ来たのは、明治の末頃である。だから、『魂の秘境から』に、

    チッソの裏山を地元の人はしゅりがみ山と呼んでいた。後年そこにいた狐が山をハッパで崩されて住み場所を失い、一族そろって天草へ帰るのに、地元の漁師に頼みごとをしに来たという話が残っている。「いまは渡し賃もありまっせんが、天草に帰ってから働いてお返ししますので、なんとか船にのせて連れて帰っては下さいませんでしょうか」と頼まれた漁師もいた。もちろん渡してやったが、なかには、木の葉ではない本物のお金を持ってきた狐もいたそうだ。

 この中で「そこにいた狐が山をハッパで崩されて住み場所を失い」とあるのは、つまり明治時代後期にチッソが進出してきて、山の東側までをもすっかり工場化して行った経緯が反映されているのであろう。
 しかも、山に住めなくなったのは狐たちだけでなく、実は何よりもまず人間たちがそうなってしまったのではなかったろうか。しゅり神山がチッソの敷地内になってからすでに100年ほどが経つので、水俣市民の間でも山の記憶はすっかり薄れてしまっているのに違いない。しかしながら、ごくごく一部の人たちには語り継がれていたのであり、石牟礼さんは敏感にそれを聞き取って育ったわけであろうか、……と、まあ、こういった次第であり、柏木氏の努力のおかげで貴重なことを知ることができたのだった。
 第404回「久々に水俣市へ」の最後は、あの日しゅり神山のことがどうしても確認できなかったものだから、「もはやすっかり忘れられてしまった山名なのであろうか? それとも……?」と、疑問符で終わらせておいた。つまりは、正直なところ、「あれはもしかして、石牟礼さんの創作か?」とでも言いたい気分であったのだ、しかし、この通り本当の地名であるということが判明した。石牟礼さん、疑ったりしてゴメンナサイ! そして、柏木さん、ありがとう!

▲写真① 川辺川 少年たちが遊んでいる。下の方に砂防ダムがある関係で、ここらもわりと砂の多いところとなっているが、遊ぶのには丁度良いのであろう。水はあくまで澄みきって、実に気持ちの良い川だ。

▲写真②梅戸港の裏山 この山の右斜め向こうが「朱利神」 、つまり「しゅり神山」ということになる。そして、明治時代以来、チッソの敷地であるために立ち入りはできないのである。