第413回 「アイヌ力(ぢから)よ!」を読んで

前山光則

 この頃読んだ本で宇梶静江著『アイヌ力(ぢから)よ!――次世代へのメッセージ』には、いたく心惹かれた。
 この本で初めて知ったが、宇梶静江(うかじ・しずえ)という人は昭和8年(1933)、北海道浦河郡のアイヌ集落に生まれている。札幌の中学校を卒業した後、東京に出て行き、昭和31年(1956)に「和人」と結婚して2児の母親となった。ちなみに、俳優・宇梶剛士(たかし)はこの人の長男だそうだ。
 30歳を過ぎた頃から詩を書くようになったらしい。さらには、60歳を越えてからはアイヌの伝統刺繍の技法を基にして、ユカラ(アイヌの叙事詩)を布面に表現するようになった、つまり、オリジナルな古布絵(こふえ)の作家として活動し始めたというのだから素晴らしい。もともと子どもの頃から絵を描くのは好きだったそうだが、しかしそれにしてもこの人は年齢を重ねてからも新たなことに励んだわけで、大変エネルギッシュではないか。さらには、「アイヌ学」を立ち上げるし、90歳を間近かにして北海道に戻る。 こうした経歴に感心してしまうが、いや、それ以前に宇梶さんを育んだ環境に注目した。例えば、次のように語っている。
「敗戦後も、食べ物が何もなかった。田んぼに水を引く細い水路に、春になると、40センチほどのウグイが上がってきます。そのウグイは丸々太っていて、おなかが赤い。赤い時は、お腹に筋子が入っています。集団で上がってくるウグイを、私たちは川で獲りました。丸太ん棒を二つに切った板をまな板にして、出刃包丁か鉈(なた)でウグイのうろこや内臓を取り、頭から尾っぽの先までミンチにするわけです。ちょうどそのころは、田んぼの畦や畑に野ワサビが繁茂していて、ウグイのミンチを野ワサビでいただくのです。ワケギやネギがあれば、みじん切りにして混ぜます。とても美味しかった。これが唯一のタンパク源でした」
 そうか、北海道にも「ウグイ」がいるのか。そして食べていたのか、と、これはとても新鮮な驚きであった。
 あの辺の川で獲れる魚といえば、わたしたちはサケとかマスが、普段は海にいるとしても産卵する時にはじゃんじゃん川に上ってくるという、そのような映像しか頭にないのが正直なところである。あるいは、海の方ではニシン、ホッケ、シシャモといった魚類が知られているだろう。
 ところが、宇梶さんたちは全く有名でない川魚のウグイをうまいこと料理して食する習慣を持っている、というのだ。わたしなど、小さい頃から家の裏の山田川やその先の球磨川でウグイを捕ることがしょっちゅうあった。ウグイのことは、「イダ」と呼んでいた。釣りをする時、ミミズや川虫などを餌にして誘うと簡単に食いついてきたし、夏の暑い時季には川に潜って銛(モリ)などを使い、盛んに捕らえていた。ただ、捕らえて遊ぶのはおもしろいものの、はっきり言ってイダは食欲をそそられる魚ではない。アユやコイなどと比べればちっともうまくないので、だから、川魚の味のランキングではほとんど最下位。大人になって八代市に住むようになってから、土地の人たちがイダのことを「猫またぎ」と呼ぶのを知ったが、これは猫でさえ目の前にイダが転がっていても興味を示さず、跨(また)いで通り過ぎてしまう、という意味だそうだ。うん、違いない、と大いに同感する。
 だが、アイヌの人たちは、ウグイの内臓を取った後、「頭から尾っぽの先までミンチにする」、そして、田んぼの畦や畑に繁茂するワサビと一緒に食していた、というのである。ワケギやネギなども使っていたそうだから、おもしろい。寒い地方の、しかも春先であればウグイたちは産卵期である。他の季節と比べれば、よほど味の方も良くなるものと思われる。まして、ワサビやワケギ、ネギなどとともに食するというのだから、こうなると結構おいしいのではなかろうか。「ちっともうまくない」などとうそぶいてはおられず、むしろ大変にそそられる話である。他にも、この本ではヤチブキやユリ根といった山菜を食用にしたり、山菜ダイオウソウを薬草として利用する等々、宇梶さんたちがいかに大自然の豊かな恵みの下に育ったか、その様子がふんだんに物語られている。
 こうした大自然と人との関係は、わたしたち現代人が忘れてしまいつつあるものを久しぶりに思い起こさせてくれるのではなかろうか。宇梶さんは、ヤマトの方から「和人」が大勢北海道に入って来てアイヌの生活がめちゃくちゃになってしまった環境の中で、複雑な気持ちを抱えつつ自己形成を果たした、ということがこの『アイヌ力(ぢから)よ!――次世代へのメッセージ』を読むと良く分かる。だが、感心するのは、その間、宇梶さんたちが大自然の中でウグイ等を捕らえて食べたし、色々の山菜になじんで育ったこと。そして、いつも「カムイ」への感謝を失わなかったのである。だから、宇梶さんは、「私は、八十九歳まで生かしてもらいました。それを支えてくださったのは、カムイだと思うんです」と語る。
 では、「カムイ」とは何か。
 それは、宇梶さん自身の言葉を引けば、「山や森は、私たちを守ってくださるカムイだと思っています」ということ。つまり、山や森や川といった大自然すべてを神として親しみ敬う気持ち――と捉えればいいはずだ。わたしたち現代人というか、「和人」がなくしてしまった感性が宇梶静江さんの体内にはしっかり息づいているのではなかろうか。
 とはいえ、「和人がなくしてしまった」と簡単に断言できるだろうか。
 実は、最近になって弦書房から島尾ミホ・石牟礼道子対談『ヤポネシアの海辺から』の新装版が出たので、久しぶりに読み返してみたが、この御両人も同様な世界を持っていらっしゃるのではなかろうか。石牟礼さんは、ふるさと水俣の正月行事について語る中で、司会者から「水に対する特別な思いがございますか」と問われて、こう答える。
「はい、水というものはほんとうに神聖なものでして、水のあるところには神様がおられるって、村じゅう思っていたんではないでしょうか。それで、小さな泉を海のそばで見つけましても、神様がおられると思って、粗末にはいたしません」
 島尾ミホさんは、子どもの頃のことを次のように回想している。
「私たちが子どものころは、神様をとっても大事にいたしましたね。水の神でも山の神でも。山へ登りますときにも登り口で必ず唱えごとをいたしました。峠道や海岸などで遊びますときも『ここで遊ばせてください』という意味の唱えごとをしまして、ハブが出ないようにというおまじないもしてから遊んでいました。何でも、神が宿るという感じで……」
 石牟礼さんが「水というものはほんとうに神聖なものでして、水のあるところには神様がおられる」とかつての村の人たちの心情を振り返るのも、島尾ミホさんが子どもの頃を顧みて「何でも、神が宿るという感じで」と述懐するのも、宇梶さんの「山や森は、私たちを守ってくださるカムイだと思っています」に繋がっていく発想ではないだろうか。
 自分たちを育んでくれる大自然への、敬虔な感謝の気持ち、そういうのを忘れてはいけないのだなあ、と、宇梶さんの本や島尾ミホ・石牟礼道子ご両人の対談を読んでつくづく思ったことであった。
 大切なことを忘れがちなわれわれ現代人ではあるものの、それでも、例えば食事する際に目の前の食べ物に向かって「いただきます」を忘れずに言う習慣だけは捨てていない。だから、現代人もまだ少しは見どころがあると考えて差し支えないかも知れないな、と思う。
 それにつけても、平成29年(2017)の5月下旬から6月8日にかけて、今は亡き女房と共に北海道を巡ったのだよなあ、と、あらためて懐かしく思い出している。東京へ出たついでであったが、釧路湿原や阿寒湖畔、網走、函館と巡り、大変充実した愉しい旅であった。阿寒湖畔では「阿寒湖アイヌコタン」の中を歩き回り、アイヌシアター・イコロやオンネチセ(アイヌアート・ギャラリー)を見学したり、数々の民芸品に接したりした。アイヌシアター・イコロでは、アイヌの古代歌謡や踊りも観た。観ているうちについつい眠ってしまったりして、しかしこういうのも心が安らぐからのことかな、と前向きに捉えた。能を鑑賞する際に、謡や舞いの心地よさについつい睡魔に襲われるのと似ているような気がしたからであった。そんなふうに旅した様子はこの連載コラム第297回から301回でレポートしており、自分としては、可能な限り土地の空気を吸い込み味わいながら経巡ったつもりであった。
 しかし、今になって宇梶静江さんの『アイヌ力(ぢから)よ!――次世代へのメッセージ』に接すると、ちっとも肝心なところを触れずじまい、実は何にも観てこなかったのではないか。うすっぺらな観光旅行しかし得ていなかったのではないか、と、猛烈に反省心が湧いてきている。
 悩ましいほどだ。
 
 
 

▲梅が満開 まだまだ寒い日もあるが、やはり徐々に春らしくなってきているなあ、と思う。日奈久温泉へ行く途中の道路脇には、梅が満開だった。