第420回 「坂本桃子『食べて祀って』出版記念写文展」のお勧め、そして……

前山光則 
 
 今回は、本題に入る前に催し物のお勧めをさせてもらおう。
 最近、弦書房から坂本桃子著『食べて祀って 小さな村の祭りとお供え物』という大変興味深い本が刊行された。実はこの本の舞台は、わたしが住む八代市の山間部・坂本町である。「町」とはいえ、旧坂本村であり、純然たる山村だ。そして、ここでの各集落の祭の伝承のされ方が、いちいち魅力的。その魅力を著者の坂本さんがしなやかな感性で捉え、分かりやすい筆致で物語ってくれている。しかも坂本さんは自分たちでもまた小さな祭を創り出すのだから、これは実にまことにおもしろい本である。
 それで、催し物のことであるが、JR八代駅前の珈琲店ミック(℡0965・32・2261)では「坂本桃子『食べて祀って』(弦書房) 出版記念写文展」が7月14日から8月1日まで開催される。坂本さんの本の世界がまた改めて身近に感じられる企画展示なので、ぜひ観に行ってほしいものだ。
 なお、会期中の7月23日(日曜)には、ミックで午後3時から写文展記念イベント「『食べて祀って』を読む」が予定されている。これは、つまり、著者・坂本桃子さんを囲んでのトークショーである。チケット代、1500円。本には書かれていないようなおもしろい話も聞けるのではなかろうかと思うので、これもお勧めである。
     *              *
 さて、本題の方へ入ろうか。最近、必要があって『石牟礼道子全歌集 海と空の間に』(弦書房)を通読したのだが、ふと次のような歌が目に止まった。

 新藷の湯気立つ見れば見るごとに胸にみちくるみなしをとめご
 ゆで干しの藷をぬすみて食みし子よ藷秋の今をいづこに居らむ

 昭和21年頃の作である。その年の4月、石牟礼さんは鹿児島本線の車中にて戦災孤児タデ子と出会い、自宅に連れ帰ってしばらく保護してやったことがある。初期散文「タデ子の記」にはその時のことが詳しく書かれており、つまり「みなしをとめご」「ゆで干しの藷をぬすみて食みし子」とはタデ子のことである。石牟礼さんは、寄る辺なくさ迷う女の子を放っておけなかったのだ。
 わたしなどは昭和22年生まれであるが、子どもの頃、ふるさと熊本県人吉市にも戦災孤児が身近にいた。永国寺という寺には、身寄りのない男の子ばかり預けられていた。キリスト教会の方にも多数いて、そこは女の子ばかりだったと記憶している。彼らは小中学校に行かせてもらっていたから、わたしたちは同じ学校で一緒に学んだり遊んだりしていたのである。中には定時制高校や大学まで進む人もいた。
 もう早や、そうした身の上を強いられる子たちは居なくなって久しいはず。日本は平和で、裕福な国となったのだ。

 かたぶいたトロッコの上にやつとこさ道生がのぼつたオーイと手を振る  

 昭和23年から25年にかけての頃に詠まれた歌である。石牟礼さんは昭和22年3月に石牟礼弘氏と結婚し、翌23年の10月に長男・道生さんが生まれている。かわいい子は、まだよちよち歩きができる程度の状態ではなかったろうか。その子が、傾いたトロッコに一所懸命よじ登るのである。「オーイ」と手を振るのは、道生君であろうか、あるいは母である作者だろうか。なんとも愛くるしい様子が詠まれている。他にもわが子を詠んだ歌はいくつもあって、「リンリンとキャンデー売りが走ってく来年の秋かつてあげるよ」「げんげ田の夕暮れ頃を泥こねてだんごつくつて吾子はかへらず」等を見ることができる。いったいにこの人の若い頃の短歌は、「ひとりごと数なき紙にいひあまりまたとじるらむ白き手帖を」とか「身につきしリズムを持てる言葉にて友がいふ嘘にうなづきてをり」というような屈折した心情を綴る作が多いのだが、ことわが子について詠う時には歓びが満ち溢れており、心和むものがある。
 さて、「かたぶいた……」の歌であるが、わたしなども昭和22年生まれである。そういえば、まだ幼かった頃、ある程度の規模の工事現場にはトロッコが持ち込まれていたよなあ、と、ひどく懐かしくなってしまう。
 「トロッコ」は、つまりは小型の貨車の一種だ。あの頃、各地に軽便鉄道というか森林鉄道等があって、そういうのであればガソリンカーがトロッコを曳いて走っていたのである。しかし、この歌の場合、多分そういうのではない。工事現場で使われていた、簡単な箱車のトロッコであろうと思われる。工事現場にレールを敷き、その上にトロッコを載せて工事用の道具類や材木・岩石・セメント類やらを運搬・移動できるようにしてあったわけだ。この頃ではほとんど見かけなくなった。
 子どもたちにしてみれば、そこにレールが敷かれてあるだけで興奮していたものだ。それはあたかもどこかの駅に繋がっているかのような、トロッコに乗れば遠いところへ連れて行ってくれるような気がして、「道生」君もきっと胸が高鳴ったはずである。だから、このトロッコを詠んだ歌はもはや幻と化した風景がいきなり蘇ったかのような、実に懐かしい気持ちになってしまう。
 次のような歌も、あの時代ならではの風景が詠われている。
 
 橋げたに夜ごと襁褓(むつき)を干しあへる夫婦こよひは争ふらしき

 昭和32年か33年頃の作である。従って、作者は29歳か30歳であったことになる。
 「橋げた」は、橋脚の上に架けわたして橋板を支える材のこと。その橋げたに「夜ごと襁褓を干しあへる」とあるから、この夫婦がどのような生活をしているのかというと、橋の下に小屋掛けして暮らしているわけである。襁褓(むつき)つまりおしめを必要とする子がいるのであれば、二人はまだ若いはず。若い身空で、橋の下での生活をしている、そして今宵は夫婦げんかをしている様子が窺える、というのだが、戦後まだ十年ぐらいしか経過していないあの頃、これはさほど珍しくない風景だったのではなかろうか。
 つまり、当時、日本国内のどこも、川があり、橋がありさえすれば、その下の河原には必ずと言っていいほどに小屋住まいする人たちがいたのである。たいていは乞食さんたちだったけれど、中には傘修理だとか地金回収業だとか、普通の仕事をする人もいた。わたしなどは人吉市の町なか、球磨川の支流である山田川のほとりで育ったが、近くのいくつかの橋の下には決まって幾所帯か小屋掛けして暮らす人たちがいた。その中の子どもと仲良しになって一緒に遊んだことが幾度もあったが、その子の父親は地金拾いをして稼いでいた。あの頃、昭和28年までは朝鮮半島の方で戦争が続いており、日本は軍需景気に沸いていた。地金も結構必要とされていたらしく、大人だろうと子どもだろうとあちこちで地金を拾い集めて業者に持ち込めば、金が稼げていたのだ。
 そう、つまり、橋の下の住人たちは意外と普通に生業を持っていた。ただ、自家を持つだけの経済力までは持ち得ていなかったようであった。しかも、橋の下であるから、雨がたくさん降って川が増水したらたやすく流されてしまう。でも、雨が止み、川の水が減ってしまうと、いつの間にかそこにはまたちゃーんと掘っ立て小屋ができていたのであった。あの頃の橋の下の住人たちは、実にまことに逞しかったのだ。
 ついでながら、昭和36年(1961)、石牟礼さんが34歳の時に発表した歌には、次のようなものもある。

 鎌置きしをとめ野いばりをせんとする橙の棘いちずにしげる
 まあたらしきゆばりのにほひ冬の野に残りて大股にをとめ去りゆく

 どうであろう。こういうのも、やはり現代では見かけなくなった風景と言って良いのではなかろうか。ほんとに、かつて田園地帯では農作業する女性が仕事を中断し、畦に行き、ちょっとの間腰をかがめて衣服の裾をはしょり、「野いばり」をする光景がわりと普通に見られていた。わたしなども小さい頃、幾度となく女の人たちのそうした姿を遠まきに眺めたことがあり、よくもまああんなふうにおしっこしてから、あん人は恥ずかしくなかっじゃろかねえ、と、子ども心にも呆れるやら、感心したものであった。
 ただ、である。やはり、女性による立ち小便は、たいていがお婆ちゃんたちであった。ところが、この歌で「野いばり」しているのは恥じらい深いはずの「をとめ」なのだ。しかも、どうもあまり躊躇もせず「大股」にその「をとめ」は去って行くのだから、度胸がある。あるいは、「大股に」とあるのは、恥ずかしくて堪らないからさっさと迅速に去って行ったのであろうか。
 ともあれ、あの時代ならではのこうした石牟礼さんの作品、すべてが今では最早まったく目にすることができなくなっている。良いも悪いも、なんだかたった6、70年の間に日本の生活風景は大変貌を遂げたのだなあ。まるで別世界のようになってしまったわけか、と思うと、大袈裟かも知れないが、ついつい溜息(ためいき)が出てしまいそうだ。
 
 
 

▲写真➀=珈琲店ミック JR八代駅から出て左から二つ目の道、右側に店がある。あの辺りでは誰もが知っている名物店である。

▲写真➁ミックの店内カウンター席 店に入って右側である。このカウンター席に座れば、店のマスター達と親しく喋りながらお茶を楽しむことができる。

▲写真➂ミックの店内 店に入って左側には、大勢で来ても大丈夫なようにボックス席も設けてある。現在、店の壁を使って「坂本桃子『食べて祀って』(弦書房) 出版記念写文展」が開催中である。